僕たち「絵師」は「AI」とどう共存するべきか?

 「AI」は何を描いているのか?

めちゃくちゃ真面目なことをテーマにあると、「AI」が「自己思想」を持っているかどうかで現時点での話も変わると思っている。

例えば人間認識できる「画像」をAIが自動で作ったとしても、実際にはまだ人間が描いて欲しいヒントを与えなければいけないのなら「自己思想」を持っているとは言えない。

つまりそれは、まだAIは言われた情報を使って「多分」という画像を作り、それを最終的に人間が判断しているから。

そうではなく、AIが自分のタイミングで画像を作り出し、そこに人間にとって意味や価値あるものとして「受け手」になった時、いわば僕たち「絵師」と同じポジションに立つのだろう。

ただ、時代の変化は凄まじく、完璧な完成度が常に求められているのではなく、時にはその前段階のイメージ部分だけでも十分だったりすることが増えていて、その意味ではAIが「自己思想」を持っているかどうかよりも、社会的なニーズに素早く応えてくれる存在であることに大きな強みがあるだろう。

こみちなどはどう頑張って描いても、1日で絵を仕上げるスピードはないし、もしもそれを強行すれば疲れてしまって段々と質が下がってしまう。

ところが、そんなことを100倍、1000倍、もっと速いスピードで行えるなら、それこそ描く「スピード」という意味ではもう太刀打ちできないだろう。

「絵」を描く意味

見た情景を残すなら、例えばカメラで撮影した方が描くよりもずっと簡単で手軽で、正確だろう。

だから、描いた「絵」の上手いか下手かの判断は、カメラの撮影と比較すると全く異なるレベルの話で、どんなに上手い人の絵でも、今のカメラよりも高精細に描くことはやはり無理がある。

だとするなら、絵を描く意味はどこにあるのか。

それはカメラでは写しきれない「見えない情景」をどこまで描くことができるかになる。

料理にもいろんな味付けがあるように、「素材」だけを提供することが料理ではないから、「絵を描く」時もそこに描き手の感情やその場の雰囲気や臨場感、色味や濃淡など、伝えたい「感情」にどこまで寄り添うことができるのかが大切だ。

いわゆるデッサンは、目の前の情景を残すための技法だが、言ってしまえばそれは「テクニック」に過ぎない。

よく、空気感や質量、光の存在などをデッサンの完成度を評価する際に用いると思うけれど、そこにある程度の描き手の選択はあっても、いわゆる「絵を描く」意味には至っていない。

というのも、上手いと言われる人の絵とプロの絵の違いは、見れば明らかに気づくだろう。

例えば、音程通りに歌える人を歌が上手いとはいうけれど、それで「プロ」とは呼ばないのに似ていて、受け手がしっかりと良さに気づき、そして意図を受け取れたことに大きな意味があるからだ。

例えば、上手い絵には違いないけれど、そこにどんな理由や意図があるのか全く分からないとしたら、その絵を自分の部屋に飾ろうと思うだろうか。

逆に、まだ幼い絵だとしても、それが我が子の描いてくれたものだったら、その絵を見るだけでホッコリしないだろうか。

つまり、これこそ絵を描く意味で、例えばAIが子どもの描いた絵を真似ても、それに感動する人はいるだろうか。

「XG」を描いている理由

そもそもは「XG」の音楽が好きになったから。

そこから「XG」の映像も見始めて、グループ誕生の経緯や一人ひとりの個性も分かって来た。

「この「娘」、よくこんな表情をするな」とか、「この笑顔っていいなぁ」とか、ステージに立っている時以外の表情も気になったりする。

それはみんな同じではないし、違うからこそで、さらに「XG」として大きな結びつきも感じられるから、自分たちのグループを大切にしていることが伝わるし、ファンの端にいるこみちみたいなにわかにも癒しを与えてくれる。

時に「何でこのシーンを描いたの?」と思われるかもしれないが、表情や仕草が気に入ったり、絵を描く上で伝えられるだろうかという絶妙な雰囲気を捉えたくなったりもするから。

今はまだまだ描いてみたいと思うシーンがあるので、「XG」の絵を描かせてもらっている。

というのも、グループの活動は永遠ではないだろうし、たまたま曲を聴き、XGの存在を知ることができた訳で、タイミングが違っていたら知らないままだったり、解散とか活動休止などになって後追いで辿ることになっていたのかもしれない。

一期一会だから。

下手な絵を見せられても、嬉しくないかもしれないけれど、少しでもそんな気持ちもあって描いていることが伝わってくれたら、「絵を描く」意味が見つかりそうだ。

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