バイきんぐ「小峠さん」を描いてみた!

 約3年前にも描いた小峠さん

小峠さんの似顔絵は、実際に描いてみると気づくのですが、「線」で描くだけではなかなか似せられません。

そこで、「面」として形を追う必要があるのですが、それでも思うようには描けなくてかなり苦戦しました。

結局、描けたのは右のような一枚ですが、見ていただくと気づきますが、やっぱり小峠さんっぽさが引き出せていません。

ただ、描くことは楽しいことで、上手く描けないこともいい経験になります。

実際、3年前にも描いたのですが、その時と比べて基本は変わっていませんが、最近取り組んでいるシワの描写などにももう少し上手くなりたいです。


東京03因をさがしてより

 豊本さんを描いてみた!

今回はテントの中に隠れようとするシーンを描いてみました。

豊本さんを描くのはもちろんですが、テントの質感なども再現したくて挑戦しました。

またここから加筆する予定ですが、さらにどこまで質を上げることができるでしょうか。

修正や調整したい箇所もまだまだあるので、どこまで丁寧に向き合えるのか。

いつもここからが焦ってしまうので、一歩進めるように作業します。

「絵を描いて生きて行く」ためには…という話

 「絵を描いて生きて行く」のは難しい!?

絵を描くことが好きな人なら、絵を描いて生きて行きたいと思ったことがあるだろう。

こみちもそんな風に思っている。

思いつくのは、デザイナーやイラストレーターなどの職種で、「絵描き」という職業は「芸術家」色が強くて生業にするには難しいと思う。

なぜなのかと言えば、「描いた価値」が簡単に評価されないから。

好きな絵描きさんの個展を見に行ったことがあるけれど、人気のあるその人でさえ、入場料や即売会の販売収益で生きて行くのは大変だと思った。

実際、その絵描きさんは都内で週に何度か絵画教室の講師をされていて、でもそれだって誰にでもできることではない。

今の時代なら、例えばyoutube を上手く活用するという手段もあるけれど、「絵を描いて生きて行きたい」人の中で限られた人だけができることだろう。

一昔前前なら、「絵を描いて生きて行く」なら、デザイナーやイラストレーターの方がずっと裾野は広かった。

デザイナーと言っても、担う仕事は幅広いからだ。

それに、特別な経歴や資格などは必要ないし、タイミングよくどこかのデザイン事務所に入れれば素人からでも「プロ」になれてしまう。

とは言え、現実的にはデザイン事務所に入ることも簡単ではなく、自身の世界観を示す意味でも作品を作る必要があるだろう。

自動車の運転がほぼマニュアル車からオートマ車に移行したように、例えばデッサンができなくても、写真と見分けのつかない絵を作ることができてしまう。

特に最近はAIで絵を描くことができる時代になり、「描く」というスキルで評価がされることが段々と難しくなるだろう。

その点を理解して、「何をどれくらいの質で描けばいいのか?」と改めて考えた時に、正直、今は何を描けば評価されるのかこみちには分からない。

例えば、「似顔絵を描く」ということも、スマホで顔写真を一枚撮れば、写真そっくりなタッチからイラストチックまで、圧倒的な速さで描いてくれるだろう。

つまり、「写真を撮る」ことができれば、その後の作業はもう描いた経験など必要なくなる時代なのだ。

絵を描く人なら経験あると思うけれど、例えば洋服のシワをある程度正確に描くのは中級者くらいでないと思うように描けない。

なぜなら、基礎的なデッサンができないと複数のシワが組み合わさった時にどうしても不自然になってしまうからだ。

とは言え「描くスキル」そのものは難易度が高い技術だとしても、すでにAIはそれを再現するレベルにあって、今さらイラストレーターやデザイナーがどれだけの描写力を持っているのか気になるだろうか。

デザイン事務所のオーナー目線で考えたら、それこそイラストレーターやデザイナーを雇うよりも、プログラマーを雇いAIで画像を作るスキルを求めるだろう。

つまり、「なぜ描くのか?」という部分が重要で、そこに尽きるのかもしれない。



東京03因をさがしてより

 角田さんの温かみの感じる笑み

喜怒哀楽を描き分けたくて、人物画も好んで描いています。

そんな流れもあって、今回の一枚は角田さんが温かい笑みを浮かべて帰ろうとする飯塚さんを引き留めた場面です。

まだ下書きにプラスして、顔のおおまかな色付けを始めた段階です。

どこまで理想にちかづけるのかも分かりませんが、ボチボチと時間を見つけては加筆しながら描いています。

東京03人気コント『因をさがして』より

 転倒したシーンを描いてみる

見えたままを描くようになって、例えばポイントとなる範囲が確認できないような構図でも挑戦できるようになりました。

描いた後でトリミングするような時はいいのですが、描きたいモチーフの全体像が確認できない時の制作は苦労していました。

今回も足が切れていて、しかも横向きになっているので、あまり描いていない構図です。

描けるなかぁと心配でしたが、どうにかここまで完成させることができました。


「ピカソは本当に偉いのか?」をネタに

 「視覚化の限界」

誰が言ったのか覚えていませんが、例えば「りんごがある」として、そう言った人と言われた人がイメージする「りんご」は完全に一致することはありません。

「絵に描いたりんご」を指差し、「このりんご」と言えば、目の前に見える物体を共通で認識できます。

とは言え、最近思うのは、「視覚化の限界」です。

もう少し具体的に言えば、「見えている瞬間」が全てとは限らないことに着目してしまうからです。

先の「りんご」で言えば、確かにそこに描かれた「りんご」を見ている訳ですが、例えば補足情報として「青森県産の」とか「昨日買って来た」のような背景を知っていると無意識のうちに先入観が生まれてしまいます。

さらに言えば、デジタルアートなのか、油絵なのか、画材は何を使って誰がいつどこで描いたのか。

「絵は絵」という認識なら、本来補足情報は役立つません。

しかし、「より深く理解する」という時に、我々はそこには描かれていないことも関連づけたりもします。

そんな行為を否定している訳ではなく、でも肯定している訳でもありません。

ただ「視覚化」と言っても、そこにはコントロールすることができない「限界」があると思います。

表題の「ピカソの偉さ」も、まず「偉い」とは何か定義しなければyes ともnoとも言えないでしょう。

そして、厄介なのはその定義で、例えば日常生活で特に美術に興味がない人にとっては、ピカソさえも名前くらい知っている有名人でしょうし、美術が好きな人でも憧れや尊敬ではなく「偉い」という言葉がしっくり来るのかは疑問です。

「偉い」とは、人ができないようなことをできてしまう人なのか…。

例えば、100mを誰よりも速く走った人は、偉い人なのでしょうか。

仮に偉い人だとして、次のレースでその人に勝利した人が現れたら、もっと偉いことになるのでしょうか。

こみち自身も絵を描くことは大好きですが、それ以外は特に続けて来たこともなく、唯一続いていることに過ぎません。

今もしも「なぜ描くのか?」と自問自答しても「それしかできないから」としか答えられません。

こみちにとって、ピカソがどんなに素晴らしい人なのか、本当のことはよくわかりません。

ただ、現時点でピカソの描いた作品を見て、「どんな絵を描いたのか?」よりも「なぜ描いたのか?」という部分に興味があります。

それはつまり、例えば今こみちが「りんご」をモチーフとして描こうと思えるのかというと、描きたいとは思いません。

理由は単純で、そこに描こうと思う動機が浮かばないからです。

それはつまり、風景画を描く時にも悩むのですが、今の画力を試したくてちょっと手強い構図に挑戦する時に感じるワクワク感も、回数を重ねて行くと描く前から完成度が分かってしまい描いても楽しくないのです。

ある意味で「りんご」を描くのはそれに近いと思います。

ピカソがあるタイミングで肖像画を描いた。

それが写真で撮影したようにリアルでも、単純に下手だったとしても、こみちには驚くことではなくて、絵を見て思うのは「なぜ、この絵だったのか?」ということ。

多分、写真と見間違える技術で描ける人は、時間さえあればも何枚でもそのレベルで描けるでしょう。

でも描く側からすると、描く前から予測ができてしまう構図は、「絵を描く」という作業ではなく、「単純な流れ作業」になってしまいます。

ただ、少しマニアックなことを言えば、撮影するカメラによっても、使うフィルムやレンズによっても写真の写り方や色味は微妙に変化し、「写真っぽい」という曖昧さでは語ることができません。

その僅かな差を絵で描き分けることに意味があるのかは別の話かもしれませんが、描き手からすると今の画力ではちょっと厳しいくらいの加減が描く楽しさになっています。

つまり、ピカソがそのタイミングで、どうしてその「絵」を描いたのかが気になるのは、冒頭で触れた視覚化の限界さえも超越したのか、超えられなかったとしたらどこまでそれに迫ったのかには興味があります。

映像による表現方法やマンガのような手法から生み出せる世界観とはまた異なる次元にいるので、「絵などなくても別の何かがあればいい」ということではないと思います。

人は無意識のうちに、感触を会得します。

いつも触れている物なら目をつぶっていてもその形状や質感が分かることに似ています。

つまり、ある絵を見て鳥肌が立つような感動を覚えるのは、潜在意識の中に感覚として呼び起こされるものがあったからでしょう。

なので、何も潜在意識にない人には、どんな絵を見ても特に感動することも起こらないと思うのです。

それは小説を読み返した時に、以前とは別の視点からストーリーを追ってしまうのに似ていて、人生経験やその時の感情によって、見え方が変わったりすることに似ています。

どれだけ多く人の心を響かせられたのか。その人数の多さが絵としての価値なのかも検討しなければいけません。

つまり、誰もが経験することに近い感覚ほど、感動する可能性が高くなるからです。

しかし、ある特殊な経験によってしか感じられない感覚も、蔑ろにするべきではありません。

多くの人にはよくわからない絵だったとしても、あるタイミングでその描かれた意味や思いに感情が揺さぶられるかもしれないからです。

画像として知っている絵も、実際に見るとサイズ感や画材の粗さなど、描いた人の感覚が全く異なって伝わったりします。

絵を図形として見ている時と、立体視した時では見え方感じ方が異なります。

ピカソが凄いかどうかは分かりませんが、彼が生きた時代や文化、生活様式を知らないと作品を描こうとした動機も分かりません。

ただ、全く同じモチーフを一見すると同じに見えても、横に並べて比べてみると違って感じることはあります。

目で見えた視覚化された情報以外に、我々も無意識に何かを感じとっているからでしょう。

それは歌の上手さでもそれは起こります。

上手い人の歌を聴き、素直に上手いと思う。

でも別の人が歌ったら、なぜか感情が揺さぶられて涙してしまった。

この違いってどこにあるのでしょうか。

アートの不思議さは、言葉にしづらいから難しいです。

それに、今はそう思っていても明日には別の気持ちになっているかもしれません。

主役が偉いのか、脇役が偉いのか。

その答えはいろいろあっていいはずです。

東京03人気コント『因をさがして』より

 このシーンも外せない!

キャンプ場にスーツ姿で現れた豊本さん。

社長の角田さんがいなくなって、飯塚さんにお願いをする。

しかも、その迫り方がちょっと怖い。

そんな場面で見せた豊本さんのワンシーンを描いてみました。

下書きから全体的に着色を済ませた段階ですが、ここからさらに描き込みたいと思っています。

青く見えるのはテントで、この後、そこに豊本さんは身を隠します。

鬼気迫り雰囲気が伝わるように頑張ります。

東京03「因をさがして」描いていたイラストが完成しました!

 完成したのはこちらです!

東京03のコントが好きで、よくお気に入りのシーンを描かせてもらっています。

今回は「因を探して」というコントのワンシーンです。

豊本さんの表情が印象的で、その顔を見て笑う飯塚さんがまだ気づいていない角田さんにも見せるという場面。

東京03のお三方は演技力もあって、コントというかドラマを観ているような感覚になるのですが、一瞬、豊本さんが笑いそうになって、それがまた上手いからこそ観ている側は可笑しくて、個人的にもお気に入りなんです。

デッサンとしては、形が狂っている部分もたくさんありますが、下書きからフリーハンドで描くのも、完コピしたいわけではなくて、雰囲気を描きたいと思っているからです。

絶対に表現したいのは、豊本さんの表情と飯塚さんの表情。

さらにウインドブレーカーとスーツの質感の違い。

光の当たり具合ももう少し上手になれば、さらに臨場感が伝えられたかもしれません。


東京03人気コント「因をさがして」より 絶対に描いてみたいシーン

 今いるのは…

新たに公開された東京03の人気コント『因をさがして』より、このシーン。

まだ制作途中で、ちょうど飯塚さんが羽織っているウインドブレーカーの陰影を描き始めたところです。

衣類のシワは、グラデーションが多くて描くのが大変ですが、質感や雰囲気をしっかりと表現するためには避けられない部分。

苦戦しながらも、少しずつ描いていこうと思います。

完成したら、youtube チャンネルにアップする予定です。

誤魔化してしまうこともできますが、逃げないで向き合うことで画力を上げたいと思っています。


東京03人気コント『因をさがして』より 制作中のイラスト

 今回選んだシーンは…

今回選んだシーンは、顔のドアップ。

画力を試すには絶好の一枚ですが、他に描くものが無いだけに逃げ場もない。

まだ制作途中ですが、描き進めて行くとまだ到達できていないレベルが求められる。

だから、とりあえずここまで描いたものの、この後にどこまで精度を上げられるか、楽しみもありながらプレッシャーでもある。


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