乃木坂46 筒井あやめさんを描いてみた!

 乃木坂46 筒井あやめさんを描いてみた!

そもそも「描く」という作業は、スマホのカメラ機能など無かった時代の知恵だろう。

確かに描くことは楽しくて、じっくりと観察することで見つかる発見も多い。

今回、描かせてもらった「筒井あやめ」さんの場合、彼女らしさがどこにあるのか、まるで間違い探しをしている感覚で、粘り強くみくらべるてやっと自分なりの納得に行き着いた。

最近、絵が上手い人って、描く技術が高い人ではなく、対象物の特徴をいかに深く掴めるかだと思う。

例えば同じ絵を描くにしても、下書きをトレースのような手法で行う場合、色塗り作業は塗り絵感覚でできるだろう。

もちろん、そのような楽しみ方も認められるべきで、楽しみ方はいろいろあっていいと思う。

しかしながら現実的には、元絵が不鮮明なものを描きたくなることも増えて、単純に線で区別することも難しくなってしまう。

不鮮明な部分をイマジネーションで補うのではなく、「よく分からない」なりに描くことがポイントで、アップでは疑ってしまう線も、少し離れて実感できるから面白い。

みなさんはどんな楽しみ方をしているだろうか。

久しぶりに「バイク画」を描いてみた!

 スズキ「Hayabusa」を描く

バイク乗りなら、あのモンスターなバイクに憧れるだろう。

ロケットに跨るような存在感は、同じバイクでもクルーザーやネイキッド、最近流行りの125ccの小型では再現できない。

バイク画を描く時に大切にしているのは、そのバイクで何キロくらい出せそうかというリアル感。

何より中心線がズレてしまうと、真っ直ぐ走ることさえ難しく、乗り物画として破綻してしまう。

そんなことを意識しながら、久しぶりにバイク画を描いてみました。

今の画力では、この辺までが限界かも知れません。

細かく見るとまだまだ表現力が足りない部分もあって、時間的にもショートカットしたりで、「作品」レベルではありませんが、バイクっぽく描けたのではないかと思います。

いかがでしょうか。

乃木坂46 池田瑛紗さんを描いてみる!

 池田瑛紗さん

もうYouTube に制作動画をアップしたのですが、結果的に言えば「外して」しまったようです。

似顔絵的にも顔立ちが整った美形なので、描くのが難しいのも事実です。

さらに、今回は顔だけではなく、上半身まで含めたポーズなので、さらに個人的な難易度は高くなりました。

しかし、このアングルを評価されるレベルで描くことができたら、描く上でのバリエーションはかなり自由になります。

まぁ、それだけに評価もされなかったというか、関心を持ってもらうことができませんでした。

高精細な元絵があると

元ネタが高精細な場合、描く時も得られる情報が増えるので描きやすくなります。

しかし、YouTube の動画から選んだワンシーンは、時に色味が不安だったり、境がはっきりしないことも多く、曖昧さをどこまで描けるのかが問われたりします。

描きたいポーズでも、目をつぶっていたりして、思うようにワンシーンを選べないこともあります。

今回の池田瑛紗さんの場合、割と一般的なポーズだと思うのですが、もう少しあとにあるおどけた感じの方が描きたかったシーンでした。

たださらに難易度が上がるので、今回はオーソドックスな方を選びましたが、結果的にはダメだったようです。

次回は、懲りずに乃木坂46のメンバーか、日向坂46のメンバー、又は格闘技選手から見つけたいと思います。

人を描いていることは伝わっても、誰なのか、どんなシーンなのかまでは伝わりません。

そこまで表現できるようになったら、納得できる画力に近づけるのですが。

乃木坂46 『何度目の青空か?』MVのワンシーンを描いてみました!

 乃木坂46 「何度目の青空か?」に勇気をもらったので

イラストの中でも、室内を描くのは簡単ではありません。

こみち自身、少しだけパース画を描いていたことがありますが、遠近法を使った時に不自然さが拭えないことって割と多いからです。

今回の場合、教室の一角を描いているのですが、正確な描写ではなく、その雰囲気や空気感や距離感が伝えられたらと意識して描きました。

もう少し描き込んだら、YouTube チャンネルにもアップしたいと思っています。

この「何度目の青空か?」は、とても元気がもらえる曲の一つで、割と頻繁に聴きたくなります。

どこを描こうかと思ったのですが、意外とこれまで描けなかった教室のワンシーンを選んでみました。

YouTube で写真のような「絵」を描く方法が公開されていました!

 そもそも写真そっくりの絵は

トレース(下絵としてなぞる)など、方法はいくつもあります。

それは叶えたのは、カメラ(ここでは画像)が身近なものになって、絵を描くことが技術力ではなくなったからです。

それこそ、絵を描くことが苦手だとしても、トレースを使うと誰でもこみち以上に上手く描けるはずです。

多くの人は、何らかの形で、下書きを描けるまでにデッサンなどを繰り返し、見えたままをどう描けばいいのかを訓練しています。

絵が上手いか下手かの差は、素人レベルであるなら、この繰り返しに尽きるかもしれません。

なので、描くことが好きで描き続けた人はやっぱり上手く描けますし、慣れていなければそれなりになってしまうでしょう。

一方で、「トレース」や「グリッド法」を使えば、そんな手間さえも不要で、極端な話、撮影した画像のピクセルを描けば、写真そっくりになるのです。

このピクセル単位を倍の4、さらに9、16と増やし、理論上は紙一枚を単位にすれば、これまでの訓練で求められたレベルと同じになります。

言い換えると、デッサンの模写レベルは、紙一枚を一つのピクセルと考える人と、4分割、16分割と考える人とでは精度が違うでしょう。

なので、多くの人がセンターとなる目安線を描いて、そこから派生する様に他の位置を見つけています。

しかしながら、グリッド法を使った方法で写真そっくりに描く方法を、下書き部分から包み隠さずに紹介されている動画をYouTube で見つけました。

絵を描く人には特別驚く内容ではありませんが、「絵を描くって簡単だ!」と認識されたらと思うと、それこそAIが自動で描いてしまう現代なので仕方ないことですが、「描くこと」の価値が失せてしまうようです。

超写実絵画にも影響する?

高精細なリアリズムを求めて描かれる超写実絵画は、髪の毛一本まで忠実に再現します。

そのことで、写真そっくりを超えて、まるで目の前に実在するかのような自然さを描こ出します。

しかしながら、そんな技法も、今では超高精細なカメラを使えば、グリッド法でも再現できることが分かります。

その意味では、そんな高精細なカメラでできてしまう以上、「描く目的」を見出すのは容易ではありません。

最も、写真そっくりな絵を描くことが、アートになるのかという議論もありますが、怖いなと思うのはプロを含めて描く意義を失ってしまわないかということ。

YouTube でもグリッド法などで描いている人たちには、この手法が分かりやすく公開されたのを受けて、描く目的や意義を見いだせなくなってしまわないでしょうか。

まして、グリッド法による模写レベルにも至らないこみちの画力など、存在意義すら奪われてしまいそうです。

現代は、ありとあらゆることがもっと簡単な方法でできるので、古典的な手法を続ける意味が失われやすいとも言えそうです。

お恥ずかしい話ですが「シンギュラリティ」を今日知りました!

 「シンギュラリティ」っと何だ?

シンギュラリティは、技術的特異点とも呼ばれていて、簡単に言えば人工知能が我々人間の知能を超えるタイミングを言うらしい。

よく例に出されるのは、チェスや囲碁、将棋などで人間と人工知能が対決し、その勝敗でどちらが優れているのかを判断したりする。

例えば、将棋の終盤で、相手の王を詰ませたい時に、そのパターンを先ずは徹底的に解析し尽くし、それができたら、中盤戦ではそのパターンのいずれかになるような駒運びを分析して行く。

これはこみちが今思いついた方法だが、問題解決のためにいつかのフェーズに分けて、それぞれの領域でパターンを作り出す。

それが大きな意味での骨組みをなり、さらに膨大な指し手のデータを加えていく。

すると、初めて見るパターンが少なくなり、つまりは蓄積されたデータの中で勝敗が決まることを経験する。

ではもしも、人工知能がそんな行程を経て人間に買ったら、人工知能が人間の能力を超えたと判断できるだろうか。

AIが数秒で絵を描くらしい

単語を幾つか伝えれば、それから連想される画像をAIが数秒で描いてしまう。

それを見て、画家やイラストレーターの仕事は奪われてしまうだろうか。

このことは音楽にも言えて、キーワードを与えれば、AIがそれなりに音楽を作ってくれる。

ここで人間と人工知能のどちらが優れているのかではなく、一個人として満足できるかがポイントだろう。

つまり、瞬時に描かれた絵を見て、満足できれば誰がどんな方法で描いたのかは時に問題ではない。

しかし、絵なのに妙に写真っぽかったり、逆に精密だけど可愛げもないというものだったら、嬉しいとは思えないだろう。

つまりは最終的に受け手がどう感じるのかが重要で、ある意味で人間よりも優れた人工知能ができたとしても、感じ取れなかればその人には不満が残る。

それこそ、精密さだけを追って、フルハイビジョンが2k、4k、8kとなったとしても、それを見分けられる受け手でなければ、もうその差にすら気づくことができない。

その意味では、「頭がいい」というような上向きの尺度だけでは解決できないことが日常生活でも増えて来た。

例えば、写真そっくりに描ける絵の上手い人がいて、でも実は下書きは画像データから読み取っていたとしよう。

別の人は、誰からも上手いとは言われない。でも妙に味があって、その人が描いたと分かるくらい個性的だ。

そんな両者をアートという視点で比べて、優劣など付けられないだろう。

つまり、さっきの将棋の話みたいだが、どう攻略すればいいのかという枠に収まらないからこそ、「アート」なのだと思える。

スマホのカメラ機能はミラーレス一眼カメラを超えたのか?

ある検証動画で、最新スマホのカメラ機能がかなり向上しているらしい。

というのも、一眼カメラと比べても、殆どの人には区別できないレベルになっているという。

本当だろうか。

ポイントは、スマホで撮った画像と同じような画像を一眼カメラでも撮って比べたことだ。

つまり、シャッタースピードから露光、焦点距離やホワイトバランス、画像の歪みなどを高次元でコントロールできる一眼カメラなら、スマホの画像に似せても撮影できる。

1から100までの方法で仕上げられる中の1つと、スマホの一枚を比較して、優劣をつける意味がどこまであるだろうか。

結局のところ、決まった方法で決められた通りがお望みなら、それこそ技術力によって生み出されたスマホで十分に満足できるだろう。

一方で、スマホの設定範囲では満足出来ず、もっと自身の意図を反映させたいと思ったら、一眼カメラはより適した選択になる。

シンギュラリティは来るのか?

人工知能と人間を比較して、人工知能が得意なことに人間の能力を合わせても、それは好みの問題だとしか言えない。

シンギュラリティを、能力の一面という意味で比較すれば、きっと人工知能は人間の能力を超えるだろう。

しかし、生きる喜びを与えて欲しいと思う人に、人工知能ができることはなんだろうか。

歌を歌うことや会話をすること、もしかしたらダンスも上手く踊れるのかもしれない。

しかし、思わず落ち込んだ人が笑ってしまう瞬間を、人工知能がどう学習できるだろうか。

こみちは、人工知能が数秒で絵を描くとしても、気になる景色に出会ったら、絵を描きたくなる。

楽をして写真に撮って終わりにしたとは思わない。

人工知能に代行して欲しくもない。

つまり、人間にはそういう部分があって、人工知能が今後どう進歩しても、人間の代わりを全て賄うことはできないだろう。

つまりはシンギュラリティの到来も、部分的な意味で人間の能力を超えることはそう遠くない日に来るだろうし、超えられない部分はもっと先にならなければカバーできないだろう。

何より、人間は自分らしささえも放棄し、そこにいるだけで満足するなら、シンギュラリティはもっと早く到来するだろう。

意外と上手い下手ではなく、その人が描いたから意味があるってこと、多くないでしょうか。

今の時代、結果だけではなく、その行程に価値を感じていたりします。

そこさえ理解できていたら、絵を描く楽しさは人工知能が奪うこともないでしょう。

乃木坂46 齋藤飛鳥さんを描いてみました!

乃木坂46の「ここにはないもの」より

今回は乃木坂46の「ここにはないもの」のMVより、齋藤飛鳥さんのイラストと描いてみました。

齋藤飛鳥さんをこれまでにも何度か描きましたが、今回はまた異なるポーズを選びました。

MVにあった駅のホームで一人舞うように踊るシーンがあって、その時のシーンも魅力的だと思ったのですが、今回はメンバーたちと一緒に歌い、最後にワンショットでアップになった時のものです。

小顔で評判の齋藤飛鳥さんですが、今回も描いていて本当に顔が小さいなと感じました。

雰囲気が上手く伝わっていたら、嬉しく思います。


「本当に描くべき絵」とは何か深掘りしてみよう!

 名作と言われた「絵画」はなぜ生まれたのか?

少ない知識で語るべきではないが、当日の画家も同じ悩みを持っていたはずで、「〇〇を描いて欲しい」というニーズに画力で応えていたのだろう。

例えば、すでに文字として生み出された世界観を資格的に再構築するようなものだ。

ゴッホの代表作とも言える「ひまわり」。

例えばその作品を完全に模倣できたとして、そこに「意味」があるだろうか。

端的に言えば、ゴッホの「ひまわり」を模倣する技術はもう特別なことではない。

言うなれば、「ゴッホが描いた」という部分が大切なのだ。

もっと言えば、「ゴッホが何を思って描いた「ひまわり」だったのか?」が我々の感じるポイントだろう。

ゴッホには「星月夜」というグルグルと渦を巻いたような風景画がある。

「渦を巻く」ということではなく、「その時の夜空がそう見えてしまう気持ちだった」ことをどう理解するのかが試される。

目の前に存在しているのに、焦点さえ合わなくて、空間そのものが歪んで見ていてしまうという心情を「文字」ではなく「筆」で表現したことが偉大なのだろう。

超写実主義とは何か?

近年の高精度カメラを用いれば、普段目にしている物でもより精密に描くことができる。

極端なことを言えば、描き手は「ドット」を忠実に塗っていけばいい。

しかし、超写実主義がカメラの模倣を目指している訳ではなくて、例えば「りんご」も「りんごとは何か?」を現代の技術を持って再現することだろう。

具体例を挙げるなら、「赤」で塗っていいのか。本当に「赤」なのだろうか。

例えば真っ黒に見えるキャンバスに、凝視すると気づくレベルでりんごが描かれていたとしよう。

作品のタイトルが「りんご」だとして、上手にりんごが描けているのかが大切なのではなく、無に見える世界に存在する「真実」を描いたというのなら、一気に芸術性を帯びるだろう。

つまり、超写実主義も描き方次第で価値を高めることができるし、描き方を間違えると評価を下げてしまう。

例えば、大きく瞳を描いて、その眼球に描き手まで詳細に映り込んでいた作品があったとする。

「細かい!」という評価が一般的だ。

しかし、超写実主義でありながら、そこに描き手の幼少期の姿が写っていたらどうだろうか。

これは簡単な作例だが、「子ども」に変えたことで生まれる芸術的価値が生まれる。

もう少し変化させるなら、瞳にサンタクロースが立ち去るシーンを写していたらどうか。

作品のタイトルも「クリスマス」とか「働き者」とか、「夢の世界」などにすると、最初瞳が描かれていると思って鑑賞した人が、「嗚呼!」と気づくだろう。

描く理由とは?

絵を描くことって、日本語で文章が書けることと変わらない。

油絵や水彩が、言語の違いであるように。

上手に描く人は、それだけ多くの情報や感情を表現に盛り込める。

デッサンが得意な人は、アウトプットならできるということ。

大切なのは、「何を表現するのか?」だろう。

こみち自身がよく東京03や乃木坂46のメンバーを描くのも、彼らの存在で動かされた気持ちをどう描けるのか模索しているから。

だからこそ、トレースして簡単に画像のコピーをしない。

そして、この試行錯誤の部分を、絵が好きな人たちと共有し、共感し、時に褒めたり、励ましたりできたらと願っている。

ただ残念なことにこみちの画力は今のまだ未完成で、描ける深さも浅い。

描きたいことが表現できていない。

YouTube やブログで描いた絵を公開し、時に高評価、時に低評価をもらうことで、描くモチベに変えている。

描くこと、書くことは今後もライフワークとしてどんな形でも継続していたい。

その意味では「上手い」ことよりも「そうしている」ことに価値があると思っている。

時間を掛けて詳細まで描くこともあれば、ササっと描き取ることもあって、そんないろんな関わり方でみなさんと同じ時に生きていることを楽しめたらと願っている。

どちらかというと、絵を描くよりも文章で書く方が楽だけど、ボチボチと絵を描くので、お手柔らかに接してもらえたらと思う。

「そんなことを考えていたの?」と興味を持った方は是非、YouTube の『こみちチャンネル』を登録してくださいね。

お願いします。

乃木坂46 久保史緒里さんを描いてみました!

 乃木坂工事中に出演されていたワンシーン

YouTube にある乃木坂46のチャンネル(乃木坂配信中)にラインナップされている紅白忘年会で、久保史緒里さんが余興として「ひろゆき」さんのモノマネを披露した。

共演者であるメンバーやバナナマンさんたちも絶賛する完成度で、口調や目線など、確かに似ていると思えた。

そこで、描いてみたのが今回のイラスト。

制作時間は、約2時間ほどで、どちらかというとササっと描いた部類になるだろう。

でも、完成度ではなく、あのモノマネを観た時の感動が伝わればと思う。


改めて「絵を描く」ことへの思いを綴ってみました!

 絵を描く価値って?

最近、YouTube をよく観ています。

このブログではあまり書いて来ませんでしたが、「絵を描く」ことよりも「描くことで何かできないか?」をずっと考えていました。

例えば、今朝観た動画は、アメリカ人の作家が若者に向けて自身の人生観を語るというもの。

ここでは内容の解説を割愛しますが、有益なメッセージでした。

また、アメリカ文化と日本文化が昔よりも似ていて、それはつまり国際的にも課題となることがグローバル化されているとも感じます。

もっと上手く描きたいと思う反面、最近、何を描けばいいのか分からなくなっていて、行き詰まり感を強く抱いています。

例えば、目の前に実在しているようなリアル感も、描くモチベになります。

しかし、心のどこかではそのために描いていうのかという疑問も浮かぶのです。

ゴッホやピカソがカメラという新しい技術の存在に触れて、正確で偽りのない描写から内面まで汲み取るような独自の画法模索したように、高精細な画像を仮に模倣できたとしても、描くことの価値に繋がるのかという疑念は拭えません。

文章表現の妙

小説を読むと、その一行目から何か別世界に誘われるでしょう。

文字の羅列によって生み出される物語ですが、どんな言葉をどう並べるのかで、生きることもあれば、沈んでしまうこともあります。

シナリオ教室に通うと、そこには同じ目的を持った仲間がいて、まだ未完成でも新しい気づきに互いが懸命です。

さらに講師のアドバイスによって、その方向性に確信を持ち、迷いながらも手探りで進むことができます。

例えば美大に四年間通って、「美術」という大きな概念を知ることができたとしても、「美術」と関わり生きることが難しいことにも気づくでしょう。

端的に言えば、クリエイターが自身で作業するよりも、クリエイターは延々とアイデアを生み出し、その周りのスタッフが具現化することで作品を作る方が効率的です。

そんな流れからすると、長時間掛けて生み出す一枚の絵を労働時間として計算すると、とても最低時給にも満たないでしょう。

絵を描く以前に、生きることができない事態になってしまうのです。

それこそ、今の時代であれば、YouTube のような制度を活用し、描くことに関連させたコンテンツで収益化を果たし、その活動を継続するベースを作ることができるでしょう。

しかしながら、絵を描くことだけでは、そのチャンネルが何をしたいのかも分かりませんし、どう関われば良いのかも理解することはできないでしょう。

改めてご挨拶させてください!

今は一枚ごとに自分なりの結果を残し、それを偶然にも目にした方から「チャンネル登録」や「高評価(低評価)」という形で伝えてくれることがあるのですが、活動初期の頃は1週間、一ヶ月が経過してもほとんど再生されることがありませんでした。

いわゆる人気コンテンツと呼べる内容ではないので、〇〇万再生というようなことは起こり得ません。

しかし、何を求められているのかを理解しながら、そしてどんな思いで描いているのかを伝えることができたら、もしかすると「描くこと」だけでは伝わらなかった思いに何か感じるものがあるのかもしれません。

なかなか口下手で、ろくに自分から積極的な行動に移せていないのですが、ボチボチと手探りで思いでを伝えて行きたいので、簡単ではありますが、今後ともよろしくお願いします。

「絵が上手い」は、あと一歩が違う!?

 なぜ上手く描けないのか?

デッサンを練習していた昔、やっぱり段違いに上手い人がいた。

こみちが「B」クラスなら、その人は「A」クラス。

もしかすると「S」かもしれない。

日ごろから描くことを習慣にしていると、形を目で見てそれを手で再現する流れに違和感はないだろう。

しかし、完成度で言えば、80%、さらに90%と仕上がって来ると、急激に難しさが増していく。

例えば数分程度のラフスケッチで、上手そうに見せる人がいる。

でも、よく見ると狂いがあるし、やっぱり「ラフ」はラフでしかない。

否定しているのではなくて、見たイメージを短時間で描き取ることが「ラフスケッチ」の目的だから、本来の目的に合っているし、気になる狂いなど後で修正すればいい。

一方で、「完成度を上げる」。

超写実絵画の領域にも繋がるけれど、「似ている」から「そっくり」、さらに「もっとリアルに」と変化させるのは簡単なことではない。

普段、こみちは横に手本を置き、それを見て描く。

以前からこだわっていることだが、トレースはしない。

完成度が一気に上がるのは分かっているけれど、それをすると「絵を描く」ではなく「コピーする」になるからだ。

とは言え、以前よりも手本に近づいている感覚はある。

しかし、それも程度問題で、90%には達していない。

自己評価では現時点で「78点」というところだろうか。

「よし、良いのが描けた」とは思えず、「まだちょっと不安だなぁ」と思って、描いたものを見本と比べてしまう。

一方で、完成度を高める秘訣は、より精度の高い見本を手に入る必要がある。

見本がそもそも「90%」なら、真似て描く以上はそれ以上の完成度にはならない。

もっと高画質な手本があれば、「85点」くらいまで行けるかもしれないが、「目で見て描く」という精度はなんだかんだでそろそろ限界かもしれない。

昨日もアップしたイラストが下側で、上はさらに数時間手直しを加えたものだ。

本当は昨日、YouTube にアップしようと思ったけれど、いつも同じ質で変化が無いから、もう少し精度を高めてみようと思って1日延ばすことにした。

見比べる、奥行き感の違いが分かるだろうか。

まだまだ精度は低いけれど、手直しした上のイラストは、背景と人物、人物も頬から鼻までの立体感が増している。

髪に関しても濃淡を調整したことで、平坦に見えていたのが少しだが緩和された。

ここからさらに手直しすることで、ある瞬間に「写真並み」になる。

そして、プロの画家であれば、「創作物」へと進化させるだろう。


同じ「質」の絵ばかりだから進歩がない!?

 ここからさらに「質」を上げるために

今まで、絵を描くことは、目の前の場面を書き残すためだった。

だから、その印象を呼び起こせるなら、不要な部分は省いても問題なかった。

一方で、写実主義的な絵に触れて、実在感を描くことでしか伝わらない感覚にも気づけた。

これくらい描くと「満足だ!」と思っていたけれど、そこで手を止めてしまうから何も始まらないのだろう。

むしろ、ここから。

どう描いて行けばいいのか。

そこにこれからの目標もあるのだろう。

乃木坂46 筒井あやめさんを描いてみました!

 人物画を描く

みなさんは人物画は得意でしょうか。

ふつう、正面画から始まり、やがて真横、さらに斜めから、最後は下からという具合に、描くアングルが変化していきます。

マンガ絵のようなベタ塗りが多様されるイラストの場合、理想型を見つけることで、一気に画力が向上しますが、それは見せ方に慣れることも要因でしょう。

一方で、絵画的には表情や年齢、内面の具現化など、表面的な凹凸ではなく、固有の特徴に関心向けられます。

つまり、マンガ絵のような理想型を目指したりはせずに、その人らしさを描こうとします。

前回、三重野慶さんの作品で勉強させていただき、気づいたポイントを取り入れて描いたのが今回の一枚です。

いきなり大きな変更点はないのですが、「存在感」をより意識しながら描くことができました。

精度としては、あと2段階くらい上げられそうですが、現状でも十分に手答えを感じことができました。

特に肌質については、赤色から黄色、緑色までを含めて描いていますが、表面的な色彩を追うのではなく、肌を層と考えて塗ることで再現したことも新たな発見です。

今年もまたボチボチですが、投稿して行きますので、良かったお付き合いいただけると幸いです。

あけましておめでとうございます!

 あけましておめでとうございます!

今年もボチボチですが更新したいと思っているので、良かったらお付き合いください。

昨年末に描きたい最後の一枚は、乃木坂46の早川聖来さんでした。

女性の肌のトーンを再現するのはとても難しく、以前から課題になっていました。

今回も早川聖来さんがとても整った顔立ちということも重なって、描くことが困難だとは分かっていましたが、どこまで描けるかと挑戦したものです。

さらに精度を上げるには、制作時間であと数時間を要すると思いますが、前回の写実主義絵画を模写させていただき、気づいたことを反映させることもできました。

今後も気ままではありますが、このようなイラストを更新しますので、良かったら2023年もよろしくお願いいたします。

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