お恥ずかしい話ですが「シンギュラリティ」を今日知りました!

 「シンギュラリティ」っと何だ?

シンギュラリティは、技術的特異点とも呼ばれていて、簡単に言えば人工知能が我々人間の知能を超えるタイミングを言うらしい。

よく例に出されるのは、チェスや囲碁、将棋などで人間と人工知能が対決し、その勝敗でどちらが優れているのかを判断したりする。

例えば、将棋の終盤で、相手の王を詰ませたい時に、そのパターンを先ずは徹底的に解析し尽くし、それができたら、中盤戦ではそのパターンのいずれかになるような駒運びを分析して行く。

これはこみちが今思いついた方法だが、問題解決のためにいつかのフェーズに分けて、それぞれの領域でパターンを作り出す。

それが大きな意味での骨組みをなり、さらに膨大な指し手のデータを加えていく。

すると、初めて見るパターンが少なくなり、つまりは蓄積されたデータの中で勝敗が決まることを経験する。

ではもしも、人工知能がそんな行程を経て人間に買ったら、人工知能が人間の能力を超えたと判断できるだろうか。

AIが数秒で絵を描くらしい

単語を幾つか伝えれば、それから連想される画像をAIが数秒で描いてしまう。

それを見て、画家やイラストレーターの仕事は奪われてしまうだろうか。

このことは音楽にも言えて、キーワードを与えれば、AIがそれなりに音楽を作ってくれる。

ここで人間と人工知能のどちらが優れているのかではなく、一個人として満足できるかがポイントだろう。

つまり、瞬時に描かれた絵を見て、満足できれば誰がどんな方法で描いたのかは時に問題ではない。

しかし、絵なのに妙に写真っぽかったり、逆に精密だけど可愛げもないというものだったら、嬉しいとは思えないだろう。

つまりは最終的に受け手がどう感じるのかが重要で、ある意味で人間よりも優れた人工知能ができたとしても、感じ取れなかればその人には不満が残る。

それこそ、精密さだけを追って、フルハイビジョンが2k、4k、8kとなったとしても、それを見分けられる受け手でなければ、もうその差にすら気づくことができない。

その意味では、「頭がいい」というような上向きの尺度だけでは解決できないことが日常生活でも増えて来た。

例えば、写真そっくりに描ける絵の上手い人がいて、でも実は下書きは画像データから読み取っていたとしよう。

別の人は、誰からも上手いとは言われない。でも妙に味があって、その人が描いたと分かるくらい個性的だ。

そんな両者をアートという視点で比べて、優劣など付けられないだろう。

つまり、さっきの将棋の話みたいだが、どう攻略すればいいのかという枠に収まらないからこそ、「アート」なのだと思える。

スマホのカメラ機能はミラーレス一眼カメラを超えたのか?

ある検証動画で、最新スマホのカメラ機能がかなり向上しているらしい。

というのも、一眼カメラと比べても、殆どの人には区別できないレベルになっているという。

本当だろうか。

ポイントは、スマホで撮った画像と同じような画像を一眼カメラでも撮って比べたことだ。

つまり、シャッタースピードから露光、焦点距離やホワイトバランス、画像の歪みなどを高次元でコントロールできる一眼カメラなら、スマホの画像に似せても撮影できる。

1から100までの方法で仕上げられる中の1つと、スマホの一枚を比較して、優劣をつける意味がどこまであるだろうか。

結局のところ、決まった方法で決められた通りがお望みなら、それこそ技術力によって生み出されたスマホで十分に満足できるだろう。

一方で、スマホの設定範囲では満足出来ず、もっと自身の意図を反映させたいと思ったら、一眼カメラはより適した選択になる。

シンギュラリティは来るのか?

人工知能と人間を比較して、人工知能が得意なことに人間の能力を合わせても、それは好みの問題だとしか言えない。

シンギュラリティを、能力の一面という意味で比較すれば、きっと人工知能は人間の能力を超えるだろう。

しかし、生きる喜びを与えて欲しいと思う人に、人工知能ができることはなんだろうか。

歌を歌うことや会話をすること、もしかしたらダンスも上手く踊れるのかもしれない。

しかし、思わず落ち込んだ人が笑ってしまう瞬間を、人工知能がどう学習できるだろうか。

こみちは、人工知能が数秒で絵を描くとしても、気になる景色に出会ったら、絵を描きたくなる。

楽をして写真に撮って終わりにしたとは思わない。

人工知能に代行して欲しくもない。

つまり、人間にはそういう部分があって、人工知能が今後どう進歩しても、人間の代わりを全て賄うことはできないだろう。

つまりはシンギュラリティの到来も、部分的な意味で人間の能力を超えることはそう遠くない日に来るだろうし、超えられない部分はもっと先にならなければカバーできないだろう。

何より、人間は自分らしささえも放棄し、そこにいるだけで満足するなら、シンギュラリティはもっと早く到来するだろう。

意外と上手い下手ではなく、その人が描いたから意味があるってこと、多くないでしょうか。

今の時代、結果だけではなく、その行程に価値を感じていたりします。

そこさえ理解できていたら、絵を描く楽しさは人工知能が奪うこともないでしょう。

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