「目は口ほどにものを言う」とは何か?
実物から写真、さらにイラストとデータ量を省くことで、メリットもある。
例えば、「喜怒哀楽」のような表現が容易になることだ。
満面の笑みを浮かべてくれたら、どれほど見ている方も癒されるだろうか。
一方で、善悪のように、誰が見ても優劣がはっきりとすることは意外と少ない。
作品として考えた時に、主人公が過去に1つだけ大きな過ちを犯していたとしよう。
しかし、その後は改心し、その過去を知らない誰もは主人公を「良い人だと評する」。
ところがふとある人物が主人公の前に現れる。
そう、あの時のことを知っている人物だ。
物語のストーリーとしてはどこにでもある転換だろう。
それよりも、ポイントは「どこから」である。
つまり「今」を基準にすると、主人公はいい人と判断してもいいだろう。
では過去から知っている人からはどうか。
どのような過ちだったのかにもよるが、取り返しがつかないほどのことだとしたら、今の改心した姿で帳消しにできるだろうか。
つまり、人物には長い過去がある。
たとえ仕方がなかったことかも知れないが、それでも「事実」は消せない。
主人公が満面の笑みを心から浮かべて喜べたとしたら、ある人物はそれを嬉しくは思わない。
「忘れたのではあるまいな」
償いとは、ある瞬間に全身全霊を込めて思うことではない。
どんな時でもいかなる時でも、自身が生きている限り「思い続けること」だと思う。
幸せに触れた時も、今だけは少し忘れて…。
そんな考えが起こるのは、どんな時でもずっと悲しんでいる人を忘れてしまったからだろう。
ここで何が言いたいのかというと、喜怒哀楽の四つで心の動きを描写できるのかということ。
「目は口ほどにものを言う」ということわざがあるけれど、表情にはタイミングや場面によってもいろんな意味を含む。
それだけ繊細な意識が顔に表れる。
実際の場面を写した写真でさえ、当時の気温や風、匂いや周りの状況など、いろんなものが写ってはいない。
ある角度から見えた「一瞬」に過ぎないからだ。
だからこそ感じられる「思い」もあるが、他方では省かれた感情もある。
それがイラストになってしまうと、目さえ線だけで描かれてしまうし、瞳に反射した光も白い点にすり替わる。
わずかな目の見開き方でさえ、そこには心模様が感じ取れるが、イラストでそこまでを描き分けるのは容易ではない。
「モナリザの微笑」という有名な絵画があるが、「モナリザの大爆笑」ではこれほどまでに後
世に残されたりしなかっただろう。
絵が上手い人には2パターンあって、見たままを描写する巧さと、対象物にある本質を読み取る感覚の凄さだ。
割と練習で補えるのは「デッサン」とも言われる描写力だろう。
一方、本質を読み取る感覚は天性の部分と後天的に学習で補う部分がある。
十代で才能を発揮するタイプは天性だろうし、後天的に学習した人は歳を重ねて段々と本質に近づいていくのだろう。
例えばカフカの「城」は、初めて読むと意味がわからない。
もしも高く評価されている作品という評価を知らなければ、読んだ人は作品に低評価を与えるだろう。
しかし、文学的に優れた作品で、ずっと語り継がれるのは分かる人にはその凄さがきちんと伝わるのだ。
イラストにしても、映像にしても、小説や映画、ドラマにも言えるが、誰もが理解できる基礎をどう設定し、そこから本当に伝えたい部分までをどう伝えるかが作者に問われる。
しかし、あまりに基礎を基礎にしてしまうと、到底伝えられないこともある。
例えば「愛」とか、「生」のような言葉は、基礎が人によって違い過ぎる。
男女がハグをして笑っているから「愛」なのか?
例えば、西陽が差し込む冷たい雰囲気の手狭な台所に無理矢理置いたようなアンバランスのテーブル。
その上には日常生活の臭いがプンプンするほど、どうでもいいガラクタが無秩序に置いている。
しかしその一角に誰かが即座に作ったスペースがあって、ラップの掛かった焼き魚の乗った皿がある。
例えば、その皿をリアルに描写した絵があって、作品のタイトルが「愛」だとしたら見た人はどう思うだろうか。
最初に思うのは、誰が誰に作って置いたのかだろう。
映像でも写真でも、それを見た時、無意識に感情が掻き立てられる時がある。
自分で意図的に引き出すことはできなくても、作品によって感情が揺れ動く。
喜怒哀楽の四つで本当良いのかと考えると、こみちはそこに含まれない微妙な感情も表現してみたい。
だからこそ、ものの本質がどこにあるのかと思いながら、描くようにしている。
きっと、こみちのように描くのは好きな人は、描き取りたい「感情」があってそれが上手く描けると嬉しいし、上手く描けない時はまた頑張ろうと思うのだろう。