「写真主義」とは異なる「キュビズム」が生まれた背景
こみちのように、絵を描くことを楽しんでいる方は「写実主義」という美術様式をご存知でしょう。
ゴッホやピカソの絵を観て、「どこを評価されているのだろう?」と思ったことありませんか。
もちろん、ピカソの幼少期のデッサンを見れば、彼が天才であることに気づくでしょう。
ではなぜ、あんな風に描いたのか。
これはこみちの個人的な見解ですが、その時代には既に「カメラ」という便利なものがありました。
つまり、「絵で表現する理由」を当時の画家たちは模索していたはずです。
いわゆる見えたままを描くデッサンは、美術における練習で、最終的に目指すは「何をどう描いのか?」ということだったのでしょう。
だからこそ、リアルに描くことが容易いことも知りながら、ゴッホやピカソは独自性を求めて「創作」していったのだと思います。
現代に甦った「写実主義」の再来
「スーパーリアリズム」とも言われる写実主義という美術様式。
誰もがスマホを持ち、一瞬で撮影できてしまう時代に、「写真そっくり」という絵にどんな価値を見出せるのか。
その意味では、先に挙げたゴッホやピカソが、写実主義から異なる様式へと進んだのは、今でいうCGグラフィックスで加工するようなもので、そのままを描くのではなく、必要に応じて加工を加えて、「実在」よりも「感性」を大切にしたとも考えられないでしょうか。
一方で、時代は一周し、写真のような絵を評価する風潮もあります。
「写真じゃないの?」
ある意味、そんな感想こそが、スーパーリアリズムの真骨頂です。
「写実主義」を否定する立場
キャンバスに描くことが当たり前だった昔、「色」はあらゆる絵の具を調合して作られます。
数値化できない以上、感覚でしか再現できないとも言えるでしょう。
一方で、今やパソコンに下絵を取り込み、輪郭をトレースして、スポイトツールで色味情報を抜き取れば、それこそデッサンなどできなくてもリアルな絵を再現できてしまいます。
つまり、「リアル感」は美術的技法ではなく、テクニックの領域で完結します。
だからこそ、リアルが主体の絵に対して「美術なのか?」と考える人がいても不思議はありません。
こみち自身が画家「三重野慶」の作品を模写させてもらった背景
絵を描くことが好きなので、いつも出会った景色や場面を見て、「自分の画力で再現できるだろうか?」という好奇心があります。
それで、今回は三重野慶さんの作品を見て、習作させていただきました。
描く前に100%を再現したいとは思わず、イラストっぽさから写真っぽさへと見える境界線を確かめてみたかったからです。
なので右のイラストは、途中まで描いて作業を終えました。
ここから色味のバランスを細かく修正していくと、イラストっぽさから写真っぽさに変わると実感できたからです。
このイラストはトレースという透かし書きを行っていないので、三重野慶さんの作品と重ねれば、かなりズレていると思います。
でも、完全一致が目的ではなくて、どう写実主義っぽくなるかの確認だったので、ズレに対してこだわりはありません。
一方で、習作は創作ではなく、デッサンの領域だと思います。
というのも、表現方法に悩むことはなく、お手本通りを忠実に再現しているだけだからです。
トレースの他、碁盤の目を用いたり、距離を細かく測って写し取ることが一般的ですが、下絵さえしっかりできれば、あとは根気の作業です。
いつもはYouTube のワンシーンを描いたりしますが、画質的に詳細な元絵はありません。
一方で、今回の習作では、三重野慶さんの作品が鮮明だったこともあり、色味も明度もかなり精密に感じ取ることができました。
いつもなら1色にしか見えない部位で、2色、3色と微妙な色味を感じ取り再現したので、今まで以上に肌の再現性は高くできたと思います。
こみちにとっての収穫は、忠実に再現すればここまで「肌」を描けることに気づけたことです。
「アート」って何でしょうか?
思いのですが、「タイトル」こそが「アート」ではないでしょうか。
例えば、「女性のアップ画」に「〇〇さん」とタイトルを付けたなら、作者は〇〇さんを見た人に伝えたくて描いたということになります。
一方で「思春期の女の子」とタイトルを付けたなら、「思春期」というイメージと「女の子」というイメージを描くことで表現したことになるでしょう。
「思春期」というイメージに30代40代の女性がモデルだったら、鑑賞した人はもしかすると「時の移ろい」や「年齢とは無関係な多感さ」を伝えたかったのかと連想するでしょう。
これが「〇〇の風景」という平凡なタイトルだったら、無作為に撮った写真と似てしまいます。
ある意味、「約束」とか「嘘」とか、描いた絵とタイトルにギャップがあると、観た人の興味や想像をくすぐるでしょう。
なぜなら「何がどうして「約束」になったんだ?」と思うからです。
私たちは、日常生活で無数の情景を見て生きています。
しかしその一枚ごとにタイトルをつけたりしませんし、明日になったら忘れてしまうでしょう。
こみちが絵を描こうと思う時も、「この情景を忘れたくない」という気持ちもあります。
それくらい立ち止まって描かないと「ワンシーン」など流れて意味を失うでしょう。
言うなれば、写真のような絵を見せられて「どうですか?」と言われても、「ハァ?」となって然りです。
なぜなら、そんな情景はこれまでにも何度も見ているからです。
そうではなくて、「〇〇」というタイトルを付けることで、特別な意図が生まれ、そこから連想する意味も生み出されます。
とは言え、今回の習作はそんなアートな作業ではなく、単純に雰囲気をどこまで今の画力で再現できるか確認したかったのです。