似顔絵との接点
こみちにとって、似顔絵(デフォルメされた人物画)との出会いは中学生の頃から。
あまり勉強が得意ではなかったこともあり、授業中は教壇に立つ先生似顔絵ばかり描いていました。
描いた似顔絵を隣席の友だちに見せたり、教室の後ろの壁に貼り付けたりして、クラスメイトからも「似てる〜」と言われると喜んでいたものです。
サラリーマンになった時も、名刺交換で受け取ったら、思い出して相手の顔を自分に分かるレベルで描いておけば、後々になって接点があった時にどんな人だったか思い出すヒントに使っていました。
「似顔絵師」にはなれないなぁと思う理由
学生時代、デッサンなどで対象物を描くという経験をして、ある事実に気付きました。
それは「真実」という線があって、それを描かないことには絶対に対象物を描くことができない必須の線があることです。
今でも、絵を描いていて、幾つも線を引きますが、あるタイミングで引いた線で絵の質が一変します。
つまり、その真実の線を無意識に引いた時に、一気に絵を描くことに手答えを感じるのです。
しかし、デフォルメされたり、表面的な造形だけを追って描いていた学生時代の似顔絵には、そんな感覚はまるでありませんでした。
それこそ、意識が似ているか似ていないかだったからです。
さらに言えば、「絵を描く」という意味は、嘘を描かないことに尽きるとも思います。
よく絵を描きたい初心者向けに、線の引き方を練習しましょうと課題が出されます。
言い換えれば、歌が上手くなりたい人が音程やリズム感を学ぶように、美術では線を正しく引くことが最初の一歩です。
ある意味、それさえできれば、一気に中級者になるでしょうし、その人のセンスも加われば「絵が上手い人」になるはずです。
そこからは、ボイトレのように、正しい道具の使い方を学んで行くのでしょうか。
ではプロと何が違うのでしょう。
多分、「線を引く」という部分ではなく、「見方」「観察力」「関係性の把握」ではないかと思うのです。
例えば、どんな映像だとしても、BGMを変えると全く印象が異なる仕上がりになります。
バラエティーっぽくも、ドキュメンタリーにもできてしまうのです。
違うのは、映像ではなく、別の要素です。
見た人が感じるのは、「見えたまま」ではありません。
例えば、実際に目の前にあるように描くことと、カメラやモニター越しに見えている描き方を明確に描き分けられたら、「そこにある」という事実が同じでも、見た人に与える印象は全く別物です。
そんな感覚に面白味を感じているので、こみちにとって似ているかどうかはあまり意味がないのかもしれません。
真顔を描いて、誰か分かるということよりも、その人が不意に見せる表情をどこまで忠実に描き出せるか、そしてそのシーンを選んだことの方が実は大切だったりします。
この感覚は、こみちが少しだけカメラ好きだからかもしれません。
カメラはシャッターを押せば、誰でも同じ写真が撮影できます。
しかし、カメラの上手い下手は、どこのタイミングで何処をどう撮影したのかで、画質は絵を描く時の線に過ぎません。
光の入り具合や、周りの物との関係性などから、対象物の存在にどう意味づけをするのかがカメラの醍醐味で、良いカメラほど、その撮影に幅が作れます。
なので、プロカメラマンなら、こみちと同じカメラで撮影しても、全く異なる写真を撮れるでしょう。
意味づけ、動機付けの視点が全く違うからです。
目指したい場所が、こみちにとっては「似顔絵」ではなかったのかもしれません。