絵描きの本音
「絵が上手い」と言われるためには、卓越された画力を目指すことだろう。
でも絵描きと呼ばれる人の大半は、「上手い」ということを重視していないのではないだろうか。
こみちの場合、「コレ、描けるかなぁ?」という気持ちが描くモチベーションになっている。
〇〇さんに似せた絵。喜怒哀楽が伝わる絵。
本音を言えば、もうその辺りには興味が薄い。
例えば、テーブルの上にりんごが1つ置いてあって、それを描くことになったとしよう。
「りんご」を描くとか、写真に見えるほどリアルに描くとか、確かに描こうというモチベーションにはなり得るけれど、描く前から完成度ってある程度見えていたりもする。
でも、描こうとしたりんごに、何か特徴的なキズがついていて、そのキズを見たら別の情景を連想させるような事情があったなら、絵描きはその背景を「描けるだろうか?」と張り切るだろう。
料理にしても、店で食べる味と家で食べる味に差があるのは、「味」には環境や雰囲気のようなものが強く影響するだと思うし、その描写に対して社会経験が伴っていない鑑賞者だと何を意図しているのか気づかないことも多い。
その意味では、りんごを「りんご」として描いたり、「写真っぽく」描いたりことは、見る側に予備知識がなくても鑑賞できるような絵だったりする。
一方で、絵描きが描きたい絵とは、段々とそんな類いから逸れて、見た瞬間に過去の経験や感情と結びつき、「もしかして?」と心を揺さぶることに目的があるのだろう。
つまり、描かれた「りんご」を見た時に、幸せそうな情景が浮かんだり、何か物寂しさが感じられたり、そんな「りんご」を通じて感情表現できたら、絵は存在価値を持つのだろう。
学生時代は喜怒哀楽の全てを満遍なく描いてみるのも大切だけど、社会人になって描くのであれば、自分にしか伝えられないような「気持ち」を表現したい。
人物画、風景画というジャンルに偏りがあったとしても、絵を見ただけで誰が描いたのか分かってしまうほどの感性を絵に盛り込めることが重要だからだ。
いつだったか、漫才のネタは同じなのに、漫才師が変わるとウケ方が違ってくるという映像を見たことがある。
「誰が何を喋るのか?」以上に、漫才師の仕草や間が笑いに大きな影響を与えているという証拠だ。
「あの人、絵が上手いよね!」
そう言わせてしまう原因は、まだまだ絵に中身が伴っていないからとも言える。
「上手い」と褒められることは嬉しいことだけど、その情景や空気感までも描き、見た瞬間に「この気持ちって何だろう?」と言いようのない感情の揺さぶりまでできるようになりたい。