いろいろと音楽は聴くけれど
ふと、聴きたくなるのが「あいみょん」の曲。
根っからの大ファンとは公言できないほど、気まぐれで聴かせてもらっている。
でも、彼女の曲を聴くのもそうだけど、MVがカッコいい。
スポットライトを浴びて、熱唱している姿は、本当に「アート」。
少し前に「トレパク」とか、模倣作品という話が世間に広まって、例えば「著作権って何?」みたいな話も出たはず。
ずっと絵を描いてきたこみちが、「トレース」をしない理由は少し哲学的な意味もある。
というのは、「線」って生きていると思っていて、トレースでは描けないから。
なぞることで「形」は書き写せても、「存在」までは描けない。
それは、実物よりも「質が下がる」完成度を見れば理解できるだろう。
つまり、とても質の高い対象物をつかえば、知らない人には「凄い」と思ってもらえる模倣品ができる。
でも、本物を知っていると、「何だこれは?」となってしまうのは、明らかに程度の悪い物を見せられるからだろう。
例えば、掲載した「絵」みたく。
でね、あいみょんさんの音楽が、いつでもこみちの心にダイレクトに響く。
いろんな人の演奏を聴くけれど、なぜかあいみょんさんの歌を聴いていつも思うのが、「音楽って良いなぁ」ということ。
「アート作品」とは何か?
こみちは古い人間なので、イラストレーターを「絵師」と呼ぶことも最近まで知らなかった。
その微妙な違いも。
ただ、芸術家とイラストレーターの差は明確にあって、クライアントのために描く人が「イラストレーター」だと思っている。
誤解を恐れずに言えば、イラストレーターが描く「絵」は芸術家の「アート」ではない。
「アート」には描き手の想いや主張があるから。
クライアントに修正を依頼されて、「従うこと」「自身の作品を貫くこと」を天秤に掛けた時に、「修正しますね」と言えるのは、自身の想いを込めた「アートではない」からこそ。
もちろん、こみちだって、あいみょんさんを描く時、目指すのは彼女の音楽を聴いた時に感じた「心の震え」だ。
でもそこには画力というものが立ちはだかり、今のこみちでは100を100では描けない。
それは分かっているけれど、言葉ではなく、「図」として感じるままを描きたくなるのが「絵」を描くモチベーションだろう。
「似顔絵」で正面は使わない!?
似顔絵で真正面の構図も好んでは選ばない。
なぜって、その人の個性が消えやすいから。
選ぶメリットは、左右対称で、奥行きが無くても違和感が少ないから、描きやすいってこと。
本当なら、似顔絵も「見た目」を描くのでは無くて、対面して感じた「その人なり」を即興で描けたら凄いし、そこに価値があると思っている。
だから、こみちが描いているのは「アート」でもないし「絵」でもない。
ただ、直接的にはトレースしていないけど、「目」を使って写しとっているだけ。
こみちは、肩書きとして「イラストレーター」を名乗ることはないけれど、絵でお金を稼いだこともある。
その時は、3つくらい画風を変えて、望まれたタッチで、雰囲気で描くようにしていた。
それこそイラストで精密画を描いて、「写真」以上に価値ある「絵」にできるなら、それは意味はある。
でも、写真を目指して描くのなら、「それって描く必要あるの?」ってこと。
やっぱり「あいみょん」
あいみょんさんが、映像でも伝えようとしているのがとても分かるから、観ている内にこみちの心も動かされてしまうのだろう。
でもこれこそが「アート」。
思うままを貫き通してくれるから、聴いている方も心が動く。
これが最初から「下心」だけで誰かの「真似」をしたいと思っているなら、本当は「アート」ではないんだろう。
結局のところ、あいみょんさんはミュージシャンだけど、「アート」を作る人なんだよ。