似顔絵と肖像画の狭間で

 賀喜遥香さんの似顔絵を描いてみた!

みなさんは、右のイラストを見てどんな風に思ったでしょうか。

どこが「賀喜遥香」さんなんだ?

全然、似ていないぞ!

様々な感想があると思います。

このイラストもこみちのYouTubeチャンネルに製作行程をアップしているのですが、「似顔絵とは何か?」をもう一度考えてみたいと思うきっかけを得ました。

デフォルメしたり、誇張させたり、または大胆に省略することで、対象となる人物を描き手自身が脚色することを世間的に「似顔絵」と定義しているわけではなさそうです。

むしろ、肖像画という呼び方には、対象となる人物の印象を外見だけでなく内面までも汲み取り表現することまで含まれるらしいのです。

個人的には、描きたいなぁと思った人物や風景を、楽しく描けたらそれで満足で、それが外見的なのか、内面的なのかはその時々で変化します。

では、ここに挙げたイラストが、似顔絵と呼べるのか、肖像画と言うべきかは、正直なところ判断できません。

と言うのも、このイラストは、トレースして描いたものではなく、ある意味で模写的で、写真ほどの高精細な描写とは呼べません。

一方で、簡素化された表現方法だけで描いた似顔絵とも異なります。

ではこのイラストは、似顔絵と呼ぶべきか、肖像画と呼ぶべきか。それともまた別のカテゴリに属するのか。

改めて考えると、案外と難しい話にも感じます。

あのゴッホも悩んでいた!?

みなさんもあの有名画家ゴッホをご存じでしょう。

何でも、ゴッホが画家として活躍されていた時代には、既にカメラという技術が存在していたそうです。

つまり、現代で言う人の描写とAIやCGの差をどう捉えれば良いのかを悩むように、当時はカメラの高精細さと人の描写と違いに注目が集まっていたみたいです。

画家がリアルに写実的に描いても、カメラの品質には勝てません。

仮に頑張って競い合ったとしても、意味があるのかという根本的な問題に立ち返ります。

そこで、ゴッホは、目に見える外見だけではなく、人が人として感じ取った感覚までも描くことを目指し、肖像画を描いたそうです。

つまり、必ずしも実際の人物のまんまとは限りません。

でもそこに、描かれた絵を見た人が、何か印象を感じ取ってくれたなら、それはそれで価値あるものになったということ。

実際、画像を下絵にトレースすれば、寸分の違いもない複製を作ることは技術的にも簡単です。

でも、それならもう描く必要性はなく、コピー機にお願いした方が良いくらいでしょう。

何のために描くのか?

カメラという技術を知った現代に於いて、「描く」をどう意味あるものにするのかは、普段から好きで絵を描いている人でも、なかなか考えないことだったりします。

呼び方として「似顔絵」が良くて、「スケッチ」や「模写」など、どれがいいということもあまり考えたことがありません。

ただ、面白いもので、「生命線」とでも呼ぶべき、必須の線があって、それを探して描いている所があります。

その線とは、誰が描いたとしても外せないだろうという大切な線で、その線を描いた瞬間に一気に絵を質が変化します。

上手く描けたときには、その線が忠実に捉えられていて、逆に不本意な時には見つけられていないことは多いです。

つまり、漫画風に描きたいなぁとは思っていなくて、かと言って写真をそのまま書き写したいとも思っていないのです。

ちなみに、このイラストに載せることができたイメージは、感じ取った情報の50%くらいでしょうか。

それはアート作品とは思っていなくて、あくまでも「このシーンを描いてみたい」という好奇心だからです。

きっとこの先に、思っていたゾーンがあると感じ取れたら、当初の「描いてみたい」という興味はある程度落ち着いてしまいます。

それが、感じとった50%という割合だったことになります。

結局のところ、この描いた絵が似顔絵なのかどうかは、良く分かりません。

というか、似顔絵と安易に表記してしまっていますが、結局のところ、描きたいなぁと思って満足できたらそれで良くなっているという感じです。

最近、あれだけ描き続けて来た東京03を描かないのも、「描きたいなぁ」と思うシーンが見つからないから。

さらには、苦手だった女性をもう一度描いてみようと思い出したことも重なって、今回は賀喜遥香さんのこの表情を描いた次第です。

みなさんは、どんなきっかけで、描く人物を見つけるのでしょうか。

改めて考えると、描くよりも複雑なことが、いろいろ関係しています。

まさか、ゴッホもカメラという技術に対して、描き方で悩んでいたとは思いませんでした。

やはり、似たようなことを考え、悩むんですね。

そこはとても面白い発見でした。




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