「本当に描くべき絵」とは何か深掘りしてみよう!

 名作と言われた「絵画」はなぜ生まれたのか?

少ない知識で語るべきではないが、当日の画家も同じ悩みを持っていたはずで、「〇〇を描いて欲しい」というニーズに画力で応えていたのだろう。

例えば、すでに文字として生み出された世界観を資格的に再構築するようなものだ。

ゴッホの代表作とも言える「ひまわり」。

例えばその作品を完全に模倣できたとして、そこに「意味」があるだろうか。

端的に言えば、ゴッホの「ひまわり」を模倣する技術はもう特別なことではない。

言うなれば、「ゴッホが描いた」という部分が大切なのだ。

もっと言えば、「ゴッホが何を思って描いた「ひまわり」だったのか?」が我々の感じるポイントだろう。

ゴッホには「星月夜」というグルグルと渦を巻いたような風景画がある。

「渦を巻く」ということではなく、「その時の夜空がそう見えてしまう気持ちだった」ことをどう理解するのかが試される。

目の前に存在しているのに、焦点さえ合わなくて、空間そのものが歪んで見ていてしまうという心情を「文字」ではなく「筆」で表現したことが偉大なのだろう。

超写実主義とは何か?

近年の高精度カメラを用いれば、普段目にしている物でもより精密に描くことができる。

極端なことを言えば、描き手は「ドット」を忠実に塗っていけばいい。

しかし、超写実主義がカメラの模倣を目指している訳ではなくて、例えば「りんご」も「りんごとは何か?」を現代の技術を持って再現することだろう。

具体例を挙げるなら、「赤」で塗っていいのか。本当に「赤」なのだろうか。

例えば真っ黒に見えるキャンバスに、凝視すると気づくレベルでりんごが描かれていたとしよう。

作品のタイトルが「りんご」だとして、上手にりんごが描けているのかが大切なのではなく、無に見える世界に存在する「真実」を描いたというのなら、一気に芸術性を帯びるだろう。

つまり、超写実主義も描き方次第で価値を高めることができるし、描き方を間違えると評価を下げてしまう。

例えば、大きく瞳を描いて、その眼球に描き手まで詳細に映り込んでいた作品があったとする。

「細かい!」という評価が一般的だ。

しかし、超写実主義でありながら、そこに描き手の幼少期の姿が写っていたらどうだろうか。

これは簡単な作例だが、「子ども」に変えたことで生まれる芸術的価値が生まれる。

もう少し変化させるなら、瞳にサンタクロースが立ち去るシーンを写していたらどうか。

作品のタイトルも「クリスマス」とか「働き者」とか、「夢の世界」などにすると、最初瞳が描かれていると思って鑑賞した人が、「嗚呼!」と気づくだろう。

描く理由とは?

絵を描くことって、日本語で文章が書けることと変わらない。

油絵や水彩が、言語の違いであるように。

上手に描く人は、それだけ多くの情報や感情を表現に盛り込める。

デッサンが得意な人は、アウトプットならできるということ。

大切なのは、「何を表現するのか?」だろう。

こみち自身がよく東京03や乃木坂46のメンバーを描くのも、彼らの存在で動かされた気持ちをどう描けるのか模索しているから。

だからこそ、トレースして簡単に画像のコピーをしない。

そして、この試行錯誤の部分を、絵が好きな人たちと共有し、共感し、時に褒めたり、励ましたりできたらと願っている。

ただ残念なことにこみちの画力は今のまだ未完成で、描ける深さも浅い。

描きたいことが表現できていない。

YouTube やブログで描いた絵を公開し、時に高評価、時に低評価をもらうことで、描くモチベに変えている。

描くこと、書くことは今後もライフワークとしてどんな形でも継続していたい。

その意味では「上手い」ことよりも「そうしている」ことに価値があると思っている。

時間を掛けて詳細まで描くこともあれば、ササっと描き取ることもあって、そんないろんな関わり方でみなさんと同じ時に生きていることを楽しめたらと願っている。

どちらかというと、絵を描くよりも文章で書く方が楽だけど、ボチボチと絵を描くので、お手柔らかに接してもらえたらと思う。

「そんなことを考えていたの?」と興味を持った方は是非、YouTube の『こみちチャンネル』を登録してくださいね。

お願いします。

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