「ピカソは本当に偉いのか?」をネタに

 「視覚化の限界」

誰が言ったのか覚えていませんが、例えば「りんごがある」として、そう言った人と言われた人がイメージする「りんご」は完全に一致することはありません。

「絵に描いたりんご」を指差し、「このりんご」と言えば、目の前に見える物体を共通で認識できます。

とは言え、最近思うのは、「視覚化の限界」です。

もう少し具体的に言えば、「見えている瞬間」が全てとは限らないことに着目してしまうからです。

先の「りんご」で言えば、確かにそこに描かれた「りんご」を見ている訳ですが、例えば補足情報として「青森県産の」とか「昨日買って来た」のような背景を知っていると無意識のうちに先入観が生まれてしまいます。

さらに言えば、デジタルアートなのか、油絵なのか、画材は何を使って誰がいつどこで描いたのか。

「絵は絵」という認識なら、本来補足情報は役立つません。

しかし、「より深く理解する」という時に、我々はそこには描かれていないことも関連づけたりもします。

そんな行為を否定している訳ではなく、でも肯定している訳でもありません。

ただ「視覚化」と言っても、そこにはコントロールすることができない「限界」があると思います。

表題の「ピカソの偉さ」も、まず「偉い」とは何か定義しなければyes ともnoとも言えないでしょう。

そして、厄介なのはその定義で、例えば日常生活で特に美術に興味がない人にとっては、ピカソさえも名前くらい知っている有名人でしょうし、美術が好きな人でも憧れや尊敬ではなく「偉い」という言葉がしっくり来るのかは疑問です。

「偉い」とは、人ができないようなことをできてしまう人なのか…。

例えば、100mを誰よりも速く走った人は、偉い人なのでしょうか。

仮に偉い人だとして、次のレースでその人に勝利した人が現れたら、もっと偉いことになるのでしょうか。

こみち自身も絵を描くことは大好きですが、それ以外は特に続けて来たこともなく、唯一続いていることに過ぎません。

今もしも「なぜ描くのか?」と自問自答しても「それしかできないから」としか答えられません。

こみちにとって、ピカソがどんなに素晴らしい人なのか、本当のことはよくわかりません。

ただ、現時点でピカソの描いた作品を見て、「どんな絵を描いたのか?」よりも「なぜ描いたのか?」という部分に興味があります。

それはつまり、例えば今こみちが「りんご」をモチーフとして描こうと思えるのかというと、描きたいとは思いません。

理由は単純で、そこに描こうと思う動機が浮かばないからです。

それはつまり、風景画を描く時にも悩むのですが、今の画力を試したくてちょっと手強い構図に挑戦する時に感じるワクワク感も、回数を重ねて行くと描く前から完成度が分かってしまい描いても楽しくないのです。

ある意味で「りんご」を描くのはそれに近いと思います。

ピカソがあるタイミングで肖像画を描いた。

それが写真で撮影したようにリアルでも、単純に下手だったとしても、こみちには驚くことではなくて、絵を見て思うのは「なぜ、この絵だったのか?」ということ。

多分、写真と見間違える技術で描ける人は、時間さえあればも何枚でもそのレベルで描けるでしょう。

でも描く側からすると、描く前から予測ができてしまう構図は、「絵を描く」という作業ではなく、「単純な流れ作業」になってしまいます。

ただ、少しマニアックなことを言えば、撮影するカメラによっても、使うフィルムやレンズによっても写真の写り方や色味は微妙に変化し、「写真っぽい」という曖昧さでは語ることができません。

その僅かな差を絵で描き分けることに意味があるのかは別の話かもしれませんが、描き手からすると今の画力ではちょっと厳しいくらいの加減が描く楽しさになっています。

つまり、ピカソがそのタイミングで、どうしてその「絵」を描いたのかが気になるのは、冒頭で触れた視覚化の限界さえも超越したのか、超えられなかったとしたらどこまでそれに迫ったのかには興味があります。

映像による表現方法やマンガのような手法から生み出せる世界観とはまた異なる次元にいるので、「絵などなくても別の何かがあればいい」ということではないと思います。

人は無意識のうちに、感触を会得します。

いつも触れている物なら目をつぶっていてもその形状や質感が分かることに似ています。

つまり、ある絵を見て鳥肌が立つような感動を覚えるのは、潜在意識の中に感覚として呼び起こされるものがあったからでしょう。

なので、何も潜在意識にない人には、どんな絵を見ても特に感動することも起こらないと思うのです。

それは小説を読み返した時に、以前とは別の視点からストーリーを追ってしまうのに似ていて、人生経験やその時の感情によって、見え方が変わったりすることに似ています。

どれだけ多く人の心を響かせられたのか。その人数の多さが絵としての価値なのかも検討しなければいけません。

つまり、誰もが経験することに近い感覚ほど、感動する可能性が高くなるからです。

しかし、ある特殊な経験によってしか感じられない感覚も、蔑ろにするべきではありません。

多くの人にはよくわからない絵だったとしても、あるタイミングでその描かれた意味や思いに感情が揺さぶられるかもしれないからです。

画像として知っている絵も、実際に見るとサイズ感や画材の粗さなど、描いた人の感覚が全く異なって伝わったりします。

絵を図形として見ている時と、立体視した時では見え方感じ方が異なります。

ピカソが凄いかどうかは分かりませんが、彼が生きた時代や文化、生活様式を知らないと作品を描こうとした動機も分かりません。

ただ、全く同じモチーフを一見すると同じに見えても、横に並べて比べてみると違って感じることはあります。

目で見えた視覚化された情報以外に、我々も無意識に何かを感じとっているからでしょう。

それは歌の上手さでもそれは起こります。

上手い人の歌を聴き、素直に上手いと思う。

でも別の人が歌ったら、なぜか感情が揺さぶられて涙してしまった。

この違いってどこにあるのでしょうか。

アートの不思議さは、言葉にしづらいから難しいです。

それに、今はそう思っていても明日には別の気持ちになっているかもしれません。

主役が偉いのか、脇役が偉いのか。

その答えはいろいろあっていいはずです。

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