例えば「木」を描いた時
地面をなる水平線を一本引き、垂直方向に幹を描き、さらに枝葉を加えたとしましょう。
確かピカソだったと記憶していますが、「模写」している内は描き手としてまだまだなんだそうです。
彼曰く「木」という形を習得すると、実際に存在する木々と変わらない描写ができると言います。
つまりそれが意味するのは、りんごでも花でも、人物でも、そこに生きている物としての生命感や躍動感を描き手がどこまでくみ取り、学んだのかということでしょう。
桜の木と松の木、杉や檜の枝ぶりの違いを理解していなければ、正確な描写は不可能ですし、さらに言えば、地域性や気候との関係性を知らないと景色として不自然な配置になってしまいます。
「創造」という描き手の空想も大切ですが、最近何を描けばいいのか悩むことが増えたのも、今の画力でデッサンできるのかという視点ではなく、それをなぜ描くのかという意味で根拠が見つからないからです。
例えば、推しのタレントがいて、その方の似顔絵を描いた時に、他人が誰を描いたのか分かることに意味やモチベーションを感じられません。
それこそ、その風景の音や匂いまで描くような気迫にはならないのです。
「上手く描いたね」という感想を最高点とするなら、目的を持たないままの作画はそこを越えられません。
写真は、レンズの品質を通して、光を受け取り目の前の対象物を再現しています。
感情としてではなく、光学的な扱いとして成立しています。
では我々がそれとは異なるアプローチで、対象物をより深く感じ取ることはできるでしょうか。
レンズでは、音までは再現できません。
音は不可能だとしても、そんな何かを描くことはできるでしょうか。