自動生成が普及する中で人はなぜ描くのか?

 「描く」とは?

こみちにとって、「描く」とは写真撮影に似た行為です。

カメラを持って散歩すると、何も持たない時よりも景色をよく観察しています。

何となく「構図」が浮かんで、カメラ越しに景色を眺めてパシリ。

カメラなければ、その道を淡々と通り抜けたはずです。

描くというのも同じで、「描けるだろうか?」ということがポイントです。

似顔絵であれば、誰を描いたのか分かるとか、目や鼻、口の形状や立体感、質感などをどこまで再現できるのかも、描くことの楽しみになります。

一方で、最新のパソコンを使えば、文章の他に絵を描くこともできるそうです。

ネット上にある画像を見つけるのではなく、新たな条件を元に描いてくれるということです。

例えば車の性能

ひと昔前なら、車の魅力にエンジンフィーリングというものがありました。

いわゆる自然吸気のエンジンなら、滑らかに噴き上がるフィーリングが心地良かったり、ターボエンジンなら過給機が作動し、爆発的に加速が高まるワープするような感覚が癖になったりします。

フィーリングとしては全く異なり、でも優劣では判断できないそれぞれの魅力がありました。

しかし、それはシフトチェンジをドライバーが自身で行っていたということも関係しています。

オートマ車が一般的になり、自動的に変速してくれるのに慣れてしまえば、操る楽しさよりも快適さの方が優先されるでしょう。

この感覚は、「描く」にも言えて、初心者がコップや花のようなモチーフから始めて、段々と複雑なものを描けるようになる楽しさがあったのですが、今は自動生成で条件さえ伝えれば、自動的に絵が出来上がります。

苦労なく簡単にできるという意味では、変速を車がしてくれるオートマ車のようです。

未来予想

例えば自動車レースで、卓越した技術を持ってより速く走らせられるレーシングドライバーがいます。

でも、未来には彼らよりも素早く操ることができるAIが登場するでしょう。

それはつまり、我々が「車を運転する」ということがなくなり、「車に連れて行ってもらう」という感覚に変わった時です。

そうなれば、エンジンフィーリングよりも、静粛性の方が大切で、無駄に大きな音である必要もありません。

振動さえない方がいいので、エンジンを始動させても気づかないくらい静かであることが求められるでしょう。

確かにスマホを持ち歩くことが当たり前になって、絵を描く必要性は高くありません。

描くよりも撮影した方が早いから。

そうだとすると、何もかもを機械がしてくれる時代になり、暇になった人間が何をして時間を過ごすのかという時代になります。

それこそ「楽しいマンガが読みたい」と言えば、自分だけに向けて作られた話でマンガを自動生成してくれるでしょう。

でも、これまで絵を描いて無駄だったとは思っていません。

それは冷凍食品がより美味しくなっても、やっぱり自分で料理したいと思うからです。

万人が美味しいと思う冷凍食品も、何度も食べていると飽きて来ます。

メーカーを変えたりしても、やはり飽きが解消されることはありません。

言い換えると自分で作ることで、その飽きが解消されるのは、決められた答えとは違うことが大切だからでしょう。

つまり、パターン化されないということが、人間らしく暮らすには欠かせなくて、便利さは効率的ではあるけれど、時に味気なさも伴います。

絵を描くだけではなく、生活面のいろんな部分が自動的になり、人間は機械に支えられるようになるでしょう。

受け身のままでも不自由はないかもしれませんが、常に受け身のままでは感動も充実感も段々と狭まってしまいます。

その意味でも「描く」という意識が、人間らしさを保つキッカケになり得ます。

絵を描かなくとも、カメラ撮影でもいいので、少しいつもとは違う意識で行動する手段を持つことが現代人には必要になるのでしょう。

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