このイラストで試したかったこと

 このイラストで試したかったこと

デッサンというと、対処物をどれだけ正確に描き取れるか習得することと思いがちだ。

石膏像の模写ばかりしていると、段々とモノクロスケールに脳が勝手に変換して、「形」ばかりを追ってしまう。

しかし、今回の一枚は「似顔絵」という要素よりも、女性特有の透き通るような肌質をどう描けばいいのかに挑んだものだ。

左頬側面に強い光が当たり、前側に回り込むように影がさす。

例えば拡大すると鼻の形などはかなり不鮮明で、でもしっかりと濃淡が再現されると「鼻」に見えて来る。

つまり、「形」が正確だから「伝わる」のではなく、「濃淡」が正確なら「脳」が勝手に理解してくれるということ。

不安になって描き手が「嘘」を描くくらいなら、しっかりと「見えたまま」を追うことで、本当に伝えたいものが勝手に伝わってくれる。

言ってしまえば、色のついた線を重ねているだけなのに、ある段階から何か意味あるものに見えて来るから楽しい。

「描くこと」は、ある段階からそう変わっていくように思う。

思うに、3ヶ月前の画力ではここまで意味ある描写はできなかっただろう。

もちろん、似顔絵として似ているいないという意味ではなく、今後も描きたいと思う方向性を見据えた時に、「これを描きたかった」にはなっていなかったと思う。

まだまだ手ごたえの段階ではあるけれど、描くことが本当に楽しいし、さらに望んでいるような描写ができるまでになりたい。


この一枚が与えてくれたもの

 この一枚が与えてくれたもの

「絵を描く」と言っても、サラッと描く落書き的なものから、油絵のような手順を伴うものまでいろいろあります。

描く目的や表現方法によって合う合わないがありますが、今は紙にスケッチするのと、デジタルでの描画が中心です。

特にデジタルの場合、何度でも描き直すことができるので、それがとても役立っています。

今回、描いた一枚は、XGの「MAYA」さんの似顔絵になるのですが、苦手意識が強かった女性の描画に対し、一定の手応えを感じられました。

こちらの一枚は、全体に占める顔の割合がとても高く、おでこからあご先までの描写が十分でないと、とても単調になってしまう可能性があります。

なので、ある程度、画面にいろいろなものがあると描きやすくなるのですが、この一枚に限ってはそれが試されたことになります。

背景や衣装がかなりシンプルでしたが、どこまで表情を表現し、破綻しないように描き切れるのかという点で、こみちなりの進歩が得られました。

ボチボチではありますが、絵を楽しく描くことをお伝えできると嬉しいです。

「何を描けば良いのか?」を考えた話

 風景?それとも人物?

たまたまある芸能人の方の記事を目にした。

あまり芸能人に詳しくないこみちだが、テレビなどでその方を見かけた時に「明るい」印象しか受けていなかった。

でも、記事によれば子ども時代から苦労していたようで、芸能界に入ることで「家族を支える」役割を担っていたという。

言ってしまえば、明るい笑顔で接してくれる人が、家に帰れば「介護」をしているということだってあり得る。

ちょっと接しづらい雰囲気の人が、もう一歩親密になればとても気さくで面白い人だと気づくこともある。

何が言いたいのかというと、「絵を描く」とは、その人の何を描いているのかということ。

つまり、顔形こそ模写することはできても、到底、その人の抱える生き様を全て描き切ることはできない。

結局、「どう見て欲しいのか?」ということだろう。

全く同じ場所から描いた風景画も、その日の天候や描き手の体調、心理状態によって無限に変化する。

でもなぜ、そのタイミングだったのか?

つまり、それを選んだことに大きな意味があって、描くことの目的も生まれる。

例えば似顔絵を上手に描く人はたくさんいる。

「似てる!」「そっくり」と見た人が驚き喜んでいくれると描いた苦労も忘れてしまうだろう。

でも、こみちの場合はちょっと違う。

最初は「何、このシーン?」と思われるかもしれない。

「全然、似ていない!」とも思われるだろう。

描く技術が未熟で見たままを描けないのは練習するしかないけれど、大切なのは「選択する」という部分。

長く同じモチーフを描き続けていると、後でそれらを見返した時に不思議な共通点が見えて来る。

つまり、その共通点こそが、その人のその人らしい「全て」なのだ。

「よくこの顔するよね?」

さらに観察していると、表情や仕草のキッカケに気づく。

「だからまたこの顔したんだ!」

そうやって段々とその人らしい反応に気づけるようになる。

今は、まだその領域には至っていない。

仕草や表情の中で描いてみたいものを見つけると描けるかなとチャレンジしている段階だ。

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