中高年のこみちにとって「絵」とは何だったのか?
若い皆さんにとって、スマホは生まれた時からあったかもしれません。
つまり、「いつでも画像化できる」そんな環境に恵まれています。
一方でこみちが絵を描き始めた十代の頃、カメラには専用のフィルムを装着し、24枚や36枚毎に写真屋で現像とプリントをお願いしなければいけません。
ざっくり、写真一枚30円とか40円とか、しかもお願いしてから受け取れるまで数日掛かるということもありました。
それだけに目の前にある「景色」を残すことは大変で、それこそ手間とコストを考えると「絵」で残すしかありません。
「絵」というと紙と鉛筆が基本で、十代の後半に進学したい学校の受験科目に「デッサン」があったことから真剣に鉛筆画を本格的に研究するようになりました。
絵を始めた頃は、鉛筆ならどこのブランドでも、どんな濃さでも問題ありませんでした。
しかし、描きたいものやポイントがより細かな違いになるほど、自然と鉛筆のブランドや削り方、使う鉛筆の濃さや使う手順、さらに練り消しゴムやブラシ、フキサチーフ、何より紙質にはこだわりました。
なぜかというと、それらの環境や条件が異なると、自分が思っている「絵」が画力とは別の意味で描けないからです。
そもそも、こみちが絵を真剣に描くようになったのは、進学したい学校で建物や住宅環境、間取りのイメージを書き残す方法として、文字を連ねるよりも「視覚的な方法」で残す方が都合が良かったからでした。
今の時代であれば、それこそスケッチなどしないでも、スマホで画像を撮影すれば「メモ」として十分かもしれません。
しかしそんな便利なアイテムがなかったので、気になったイメージをインプットするためにも絵が描けないことには何も始まりませんでした。
板タブやペンタブに移行するまで
仕事としてイラストを描くこともありましたが、それでも初期の板タブやペンタブは、感覚的には手書きが1ミリ単位の精度なら、少し大げさですが1センチとか3センチくらい合間なコントロール性で、「メモに書き残す」にも思うような出来にはなりませんでした。
なので、アナログで描いてから専用の機械でスキャニングし、それをPhotoshopで加工するのがデジタル化の流れでした。
色味が変わってしまうことを防ぐために、スキャニング中に使用する照明はとても高価なライトで、しかも一枚の画像を3分とか5分とか掛けて、それこそ納得できる品質の画像としてデータ化するには10枚もスキャニングすると半日を潰すくらい重労働です。
昔を思い出すと、スキャニングして、画像についたゴミを取り除き、仕事で使えるレベルにまで加工する作業は、一枚で1000円以上も請求していたほどです。
数年から趣味で、iPad とapple pencil との組み合わせを使うようになり、正直なところアナログを1ミリ単位の精度とするなら、今でも3ミリとか5ミリの精度だと思います。
それでもこの組み合わせを使う理由は、やはり簡単に描けるからです。
特にアナログでの着色は塗って乾くまでの時間が掛かります。
それこそ製作時間が、半端なく長時間になってしまいます。
iPad を使えば、テレビを観ながらでも寝転んでいても、いつでもどこでも始められるのがポイントです。
遊びで使うなら、この組み合わせで十分に楽しめます。
トレースと模写
トレースという作業は、主に依頼された会社のロゴマークを起こす時に使いました。
多くはAdobeのIllustratorで描きます。
ロゴを起こすことは、上手く描けることよりも「精度」が求められる作業です。
だからこそ、トレースという技法を使います。
一方、模写というよりは、デッサンと呼ばれる方法で主に画力アップのために練習することが多かったです。
見たまま、見えたままをできる限り正解に写しとる作業が模写でありデッサンの目的です。
その意味では、トレースも模写も、それぞれの目的に合っていれば、積極的に使って良いと思います。
著作権を含めた法律と「コピー」の関係
なぜ、著作権を含む肖像権などの法律が整備されたのでしょうか。
思うに、「創造」にも努力と価値を認めるという社会のルールが必要だったからではないでしょうか。
さらに著作権が原則「親告罪」になっているのは、「真似たらすぐにアウト!」ではなく、「創造」が侵害されて困っているという原作者の思いを権利として認めているからではないでしょうか。
例えば、ある美術作品を多くの方々に真似てもらい、それによって本家の知名度が上がったというような場合、実は著作権の侵害を訴えるよりも、社会現象になった方がビジネスとして有益ということもあり得ます。
つまり、ただただ他人の努力を一方的に「盗み取る」という場面で、しかもまるで自身の成果物であるかの様に他人が勝手に主張する行為を「著作権法」は排除したいのでしょう。
写真やイラスト、映像にも言えますが、構図やアングル、色味や筆のタッチなどなど、本家が持っている特徴を本質的に意図的に真似てしまう行為は、やはり当事者にとって努力やアイデアを盗まれたと感じるはずです。
一方で、似ているからというだけですぐに「アウト」となる訳ではありません。
権利を誇示したい人が、侵害しているとされる相手に対して、民事訴訟を起こして法の判断に委ねてこそ結果が示されます。
例えば、誰の目にも疑いようがない完全なるコピーを使っても、教育的な目的などでは権利の侵害と認められない判例もあるように、法は単純に見た目の一致を判断しているのではなく、その両者の意図や目的が原作者側の利益侵害に抵触しているかを確認しているのではないかと個人的に思っています。
それこそ、他人の作品を、そのテイストそのままにコピーして、しかもそれを第三者が自分の創造物かのように振る舞ってしまえば、当然ですが著作権侵害が疑われます。
一方で、オマージュという言葉があるように、元の作品に感銘を受けて、その魅力に似せた作品を創作したような場合、それこそ一概に著作権に触れているかは裁判所の判断を待つしかありません。
それだけ「似ていること」自体は創造物としては起こり得て、でも社会的にみても原作者の権利を侵害しているとなれば、その人のアイデアや工夫を尊重し、権利として守られる社会であって欲しいと思います。
こみちは法の専門家ではないので、著作権法の判例や事例もほとんど理解していません。
ただ、いくつかの判例や判決の経緯を見ていると、著作権侵害の必要性と親告罪にしている理由が分かるように思いました。
絵を含む創作物が、健全な形で世間に浸透し、またそれに感動したファンがその作品の魅力を味わい、又自身の活動のエッセンスにできれば、世に生まれた創作物がさらに意味あるものとして生き続くのでしょう。