絵を描くという行為
絵を描くという行為も、最初から上手く描ける人はほとんどいないでしょう。
形が取りやすい、取れなくても違和感がないなど、描きやすいものから始めて、段々と描けるモチーフが増えてくるというのが「画力が上がる」ということでもあります。
例えば、ボールを丸く描くのは、初心者向けのモチーフです。
しかし、紙風船やボーリングの球など、重さや質感を意識すると中上級のモチーフでしょう。
さらに、照明の当たり具合や使い古された劣化まで意識できると「作品」になるのかもしれません。
言ってしまえば、実際のキャンバスに描く線は、描く内容で変化するものではなく、「組み合わせ」の違いに過ぎません。
ですが、段階を経ることで、より真実に迫る描写ができるのも事実で、それが経験則です。
ここからが「AIの描く違和感」の理由を想像する話になるのですが、デジタルという描写の場合、「線」という概念も後付けで、言ってしまえば「ピクセル」のコントロールさえできれば、実写風にもイラスト風にもできてしまいます。
人物を描写する際、人が描く時には、「現実味」という感覚を持っているので、コレはあり得ないという違和感を無意識のうちに感じとり、避けて描きます。
これは画力が上がる中上級者の方が初心者よりも強く、だからこそ破綻しない絵を描くのでしょう。
一方で、AIが描く場合、そもそも「人間」という概念をどこまで理解しているのでしょうか。
性別や年齢、性格をどこまで感じ取り、描く際の違和感に含めているのか。
つまり、「人」という画像の特徴的な情報を数多く学習し、「人はこんな形」と認識しているのだとしたら、その情報は人間が感じるよりも繊細に分類できているでしょうか。
例えば、アジア人という雰囲気があって、でも日本人というのはまた少し異なります。
関東と関西でも何となく違うと思うのは、骨格というフレームの違いではなく、姿勢や表情、仕草などから感じるのかもしれません。
では、関西人という人物を描きたいからと言って、どんなイメージを浮かべるでしょうか。
身につける洋服や小物、髪型など、今の時代に明確な違いはほとんどないはずで、でも何となく「関西人」と思える癖を捉えられたら、作品としての意味は増します。
しかし、現時点のAIが関西出身とか、お笑いを見て育ったということを踏まえて、人物像に反映させていないのだとしたら、描く絵はいつも、どこの誰か分からない人になってしまうでしょう。
つまり、美人や美男子だとしても、生活感を全く感じられなかったり、性格や人柄が見えない違和感があったりして、それがリアルに描かれることでさらに「何か不思議」という認識を与えてしまうのかもしれません。
別の言葉で言い換えれば、「血が通っている」という感じを表現する難しさを超えなければ表現できないことがあって、その意味ではまだAIの作る絵には無いものがあるのかも知れません。
それ故に、「何か不思議」という無意識の印象を与えてしまうのでしょう。
言ってしまえば、AIには気にならないようなことが、人間には耐え難い「こだわり」になったりするのでしょう。
その問題を解決するには、「上手く描く」という領域の話ではなく、「人間」とか「生きる」のような広い範囲での解明が必要です。
ただ近年、人がAIに慣れることで、違和感を人間の方で補完しているので、「違和感?」と思う人もいるということでは無いでしょうか。