久保史緒里さんを描いてみたけれど
今回のテーマは、久保史緒里さんを描くことではあるけれど、仕草や表情の描写にこだわってみた。
今回のシーンは、キャプテンの秋元真夏さんを前にして感情が溢れ出した時のもので、瞳に溢れ出した涙までどう描けるのかが課題になった。
カメラが広角だったからだろう。
少し顔全体が歪んで見える。
でも描く上では、修正をしないで、見えたままをできる限り描こうと思った。
今回のテーマは、久保史緒里さんを描くことではあるけれど、仕草や表情の描写にこだわってみた。
今回のシーンは、キャプテンの秋元真夏さんを前にして感情が溢れ出した時のもので、瞳に溢れ出した涙までどう描けるのかが課題になった。
カメラが広角だったからだろう。
少し顔全体が歪んで見える。
でも描く上では、修正をしないで、見えたままをできる限り描こうと思った。
乃木坂46というアイドルグループを知ったのも、youtube の動画コンテンツを見つけたからで、最初は顔も分からなかったのですが、公式チャンネルをはじめ、様々な動画を観ている中でメンバーの顔と名前、さらにグループの方向性や個々の立ち位置など、気付かされることが増えました。
間違えているかもしれませんが、乃木坂46は二代目キャプテンの秋元真夏さんが卒業し、結成当時の一期生が全て脱退したことで、その後に加入したメンバーによる新たな乃木坂46に変化する大切な時期を迎えています。
先輩たちがいなくなってそれまでは後輩として活動していた人が、新たな体制を迎え自身の役割を考えることも増えたでしょう。
つまり、アイドルグループという範疇を超えて、こみちのような一般人にも通じる部分があって、「自分には何ができるだろうか?」とか、「何をするべきか?」というような自問自答もあったはずです。
そんな中で、たまたまyoutube で見つけた弓木奈於さんに関する動画の中で、イメージ的に3枚目キャラを演じていた彼女が、逆に優等生的な存在のメンバーに対して、絶妙な距離感でサポートしている姿を見つけました。
「〇〇のやり方知らない」というメンバーに、「多分ね。多分、〇〇は…」と弓木さんがアドバイスしているのです。
本来なら「知っているよ。これは〇〇をすればいいの!」でもいいはずです。
でも「多分ね」という入り方をする姿勢に、「ん?」とこみち自身は思ったのです。
もしかして、「弓木さんって、普段から自分のことよりも相手を立てているの?」と。
そんな気づきがあって、ある乃木坂46の番組収録で、クイズに前のめりで挑む弓木さんを見つけ、何かこみちの心が動かされました。
以前同様のスタイルでもいいはずなのに、自分から積極的に取りに行く姿に感動したからです。
そんな弓木さんを描いてみたくて、それに通じるシーンとして、正解し腕を高々と挙げる姿を選んでみました。
個人的な考えですが、漠然と置かれたりんごをどんなにリアルに描いても、そこにはテクニックとしての価値はありますが、伝えるという意味での価値はありません。
こみちは描くことも、文章を書くことと同じと思っていて、視点や表現方法に違いがあるだけだと思っています。
つまり、何らかの決意をして、意気込む表情の弓木さんを絵で描くことはできるかもしれませんが、言葉としてその瞬間を切り取る言葉はありません。
瞬間を描ける絵の持ち味と、時系列で流れを伝えることが得意な文章には、異なる表現方法があるからです。
その意味で、こみちは似顔絵として「弓木奈於」さんを描いてみたいとはおもわなくて、弓木奈於さんという人物が見せる表情を描くことで、感情の変化や言葉では伝えられないワンシーンを描きたいと思っています。
そのためには、「表情」というものがとても大切で、デフォルメすることでその個人を特徴づける技法は求めている表現方法ではありません。
かと言って、写真をそのまま再現したいのでもなく、究極的には「感情」を描くための前段階のような感じです。
以前よく描いていた東京03のコントで、例えば出演された角田さんっぽい人を描くことが目的ではなく、コントで見せた表情をいかに再現できるか、さらにはそのコントさえも飛び越えて、演技中に思っていた感情さえも見逃さないで描きたいくらいです。
つまり、コントでは笑いのシーンなのに、実は目元は笑えていないというような些細な表情を描きたいのです。
よく初心者向けにりんごを描くことがありますが、形や色を真似ることが第一段階とするなら、重さや熟成度、品種や季節、描いた時刻や気温、天候などなど、「そこにあるりんご」を描くことがこみちの目指したい描くことの目的になっています。
つまり、ある段階まではリアルさの追求なのですが、その先は感覚的な領域で、でもそこに到達するにはまだまだ画力が足りません。
今は気ままに描くことを続けながら、いつかそんな意味で描けるようになりたいと思っています。
なぜ、このシーンを選んだのか。
いろんな背景があって、今回はこのシーンを選ばせてもらいました。
もっと画力が向上すれば、さらに多彩な表現が加えられるとは思うのですが、地道に描いていないと簡単には向上しないのが絵なので、もっとこみちが感じることを上手く伝えられるようになりたいです。
20年という長い年月を漫画家のアシスタントとして働き、連載を夢見ていたもののそれが叶わないと帰郷を選んだ角田さん。
同じアシスタントとして活躍する飯塚さんや豊本さんも、駅のホームまで見送りに来てくれた。
しかしながら、電車が事故でなかなか来ない。
三人はベンチに腰掛けて、別れの時間になるまで、同じくアシスタントとして過ごした日々を思い出す。
ふと、テンションが上がった角田さんが立ち上がり、二人の今後の活躍を故郷で祈っていると告げ、さらに感謝の気持ちを語ると鞄を肩に担いで、ホームのスレスレまで歩いていく。
「じゃあな!」
角田さんは、最後の別れの言葉を発した。
「電車、電車で来てないよ」
「嗚呼〜」
ある意味でロマンチックで感極まる角田さんは、アシスタントとして過ごした日々を、24時間漫画だけを考えていたと語る。
それくらい夢を追い、やり切ったからこその帰郷なのだと。
でも、見送る二人はそんな風に思っていなかった。
むしろもっと真面目に向き合っていたなら、夢だって叶ったはずだという。
何より、一時期は女に惚れ込み、連載の持ち込みもしなくなって、それを不満にさえ感じていたくらいだ。
二人からの印象を知り、「良い感じで帰らせろ!」と角田さんは怒ったりもするのだが…。
それでもまだ電車が遅れているようだ。
駅のホームで、わちゃわちゃと騒ぐ三人の様子が、東京03っぽくて好きなコントの一つでもある。
「美しい」と感じる理由は、その配置のバランスと各パーツの無駄の無さが関係しています。
つまり、少しでも配置が異なると、描かれた絵は全く異なる人に見えますし、そもそもその人を描く理由を失います。
白石麻衣さんにしても、向井葉月さんにしても、とても美形の顔立ちで、その特徴はちょっとした一部分ではなく、全体的に織りなす関係性があってこそ成立します。
つまり、目鼻口と描こうにも、ササッと引いた線だけでは全く白石さんには思えません。
「ああどうしよう!? 全然、描けない!」と思ってしまいます。
時間を掛けて、何度も何度も見直して描いたのが、このイラストです。
どうでしょうか。どちらが白石さんで、もう一人が向井さんだと分かるでしょうか。
しかも、頬を寄せてこちらを見つめる視線にも少し違いがあって、強いしっかりと見つめる左側の人と、少し頬を寄せることに躊躇いを感じ、見つめる視線もどこか不慣れな印象の右側の人。
もしもそのような解説をイラストから感じ取ってくれたのなら、こみちが意図して描いたテーマがしっかりと伝わったことになります。
コントラストの強い元絵で、それを描くのはかなりの難易度だと思います。
例えば、目元。
瞳を始め、各パーツの境界線がはっきりしていないので、「あたり線」で位置決めが難しく、「面」として捉えた意識が必須でした。
鉛筆画のようなスタイルであれば、濃淡だけを意識すればいいので、問題にはならない部分ですが、着色画の場合には色味の再現でコントラストの強さが難易度をアップさせます。
なぜなら、いきなり色味が変わるので、その位置を曖昧にはできません。
少し間違えただけでも、全体として全く異なる絵になってしまいます。
ご覧の通り、左頬の方から日が当たっているシーンです。
個人的な感想としては、60点くらいでしょうか。
課題にしていたポイントで、克服できたものとできなかったものが混雑していたからです。
ただ、少し発見したことがあって、もしかすると一気に画力がアップするかもしれません。
個人的にも、今後が楽しみです。
youtube の「こみちチャンネル」にもアップしているので、良かったら覗いてもらえると嬉しいです。
もうすぐ卒業される秋元真夏さん。
アイドルとして11年間、しかもキャプテンとして活躍された。
こみちの場合、乃木坂46を知ったのはyoutube の動画コンテンツで、好んで動画をし始めた時には一期生と呼ばれるグループ誕生時のメンバーがかなり卒業されていた。
動画コンテンツとして残っていると、卒業されたメンバーもまだ現役で活躍されている錯覚を起こしてしまう。
初代キャプテンの桜井玲香が卒業された2019年の頃を知らないので、多分2020年のあたりから見始めたのだろう。
可愛いからアイドル。
以前はそんな印象だったけれど、動画コンテンツを見始めて知ったのは、彼女たちが自己プロデュースをどれだけ真剣にしているのかという部分。
もちろん、グループ愛もそうだけど、限られた期間で何をどうしたいのかを懸命に探しているように見えた。
デビュー当時の映像を観ると、やっぱり一般の人と変わらない。
でも、芸能活動をする中でどんどん成長し、個性を磨いている。
興味深いのは、発足した1期メンバーと最後に加入した5期メンバーで、10歳くらい世代が違うのだろう。
つまり、同じグループでありながら、生きている時代が違っている。
今回、描かせてもらった秋元真夏さんは一期の最後となるメンバー。
彼女が卒業すると、グループ全体の雰囲気もガラッと変わるだろう。
同じように続く乃木坂46としての伝統を守りつつも、時代の変化もあって自然と様変わりして行く部分もある。
今思えば、中学や高校もそれぞれ3年しか通っていない。
社会人になってから感じる3年とは全く感覚も違う。
アイドルって、それだけ濃密な時間を掛けた特別なものなのだろう。
しかも秋元真夏さんは11年間というグループ発足から乃木坂46を見てきたメンバーだ。
卒業されることには、「卒業おめでとう」と思う反面、まだまだグループをけん引して欲しいと思える人だった。
詳しいことは何も分からないにわかファンではあるけれど、乃木坂46のまとまり感は、どこか秋元真夏さんの人柄もかなり影響していたように思う。
こみちの悪い癖は、ある程度の段階で満足してしまうこと。
なぜなら、絵を描きたいからではなく、絵を描くことで感じた感覚を残したいと思っているから。
それが誰かのためではなく、自身の記憶や思い出になれば十分なので、昔は色付きの絵さえも描かなかった。
右のイラストは、昨日に紹介してから気になる部分をさらに描きこんだもの。
厳密には帽子や着ている洋服、髪の毛など、まだまだ本当は手を加えられる部分もある。
金川紗耶さんという方をイメージするために、残すべきポイントだけで描けたら、それは最高の似顔絵になるだろう。以前にも話をしたけれど、こみち自身が目指しているのは、自身の感覚を「図形」として描き残すことで、写真そっくりに描くことでも、デフォルメされたキャラクターでもない。
左側のイラストは、昨日に公開した時のもの。
比べてみると、金川紗耶さんという人物、さらに肌の凹凸や、微笑んだ時の表情筋の動きを示しているだろう。
ただ、個人として「金川紗耶さんってこんな表情をするなぁ」と思った印象は同じで、違うのは描きこんだ方がよりそのイメージを絵に落とし込めているということ。
それこそ、画像を下絵に描けば、寸分の違いもなく簡単に描けるのは分かる。
でもそこに意味を感じないのは、写真のように描くことが目的ではないから。
重さ100キロくらいの大きさに感じたら、そのイメージを描きたい。
美人だと思ったら、どう美人だったのかを描けたら嬉しい。
でもそれを表現するための画力を身につけるのは容易ではなくて、例えば今回のイラストで言うと、笑った時の頬の盛り上がり方に特徴があって、そんな風に表情をはっきりと示すことができるのは、顔立ちの性ばかりではないと思う。
つまり、内面の動きが表に出た部分で、それがどこにどう現れているのかを観察して描くことが楽しい。
その意味では、二つのイラストの根本的な評価はほとんど違ってはいなくて、むしろ、もう少し画力があったなら表現できたであろう部分が描けていない。
もっと上手くなりたいなぁと思うのは、写真に寄せたいからではなく、感じた雰囲気をさらに限界近くまで落とし込めないもどかしさが残るから。
とは言え、既に気持ちのどこかで満足しているでしょう。
そこがこみちの弱点。成長しない理由とも言える。
今回も乃木坂46の金川沙耶さんを描いている。
絵を描く人であれば、このアングルって苦手意識はないだろうか。
こみち自身も得意ではなくて、やや上に向いた視線を維持して描き切るのが難しい。
さらに、前回は金川沙耶さんらしさを見つけられず、誰を描いてのかも分からないままになった。
今回は金川沙耶さんらしさを見つけたくて、再挑戦している。
もちろんこれで完成ではなくて、むしろここからどれだけ描き込めるのかが問われている。
いつも、この辺で満足感が出て、最後まで描き続けるモチベを消失させていたから、慎重に取り組みたい。
肌の質感、唇や目元の描き込みとまだまだ修正箇所が残っているが、現段階を紹介させてもらったのは、ここで手を抜かない決意を示したいと思ったから。
最後まで頑張ります。
いつもとは異なる描き方をしたのは、線画ではなく色付きの絵を最初からイメージしたかったから。
でも、凹凸の多い顔立ちは、日本人よりも西洋人を描く感覚で、立体感をしっかりと出しながら金川沙耶さんに似せて行く作業となりました。
しかしながら、ずっと見ているとどこがどう違うのか、逆に全てが違っているようにも思えて、ここからどこまで寄せられるのかが問われそうです。
1日期間を置いて、もう一度修正したいと思います。
とりあえず、現段階までの進捗という意味で、紹介できたらと思いました。
学生時代からも手を描く機会は多かったはず。
でも改めて描いてみると、いろんな発見もある。
形の取り方や肌の質感の再現性など。
今の画力を確認するには最適なモチーフだろう。
何か描くものはないかと思った時には、改めて手を描いてみるのもおすすめだ。
こみちにとって、似顔絵(デフォルメされた人物画)との出会いは中学生の頃から。
あまり勉強が得意ではなかったこともあり、授業中は教壇に立つ先生似顔絵ばかり描いていました。
描いた似顔絵を隣席の友だちに見せたり、教室の後ろの壁に貼り付けたりして、クラスメイトからも「似てる〜」と言われると喜んでいたものです。
サラリーマンになった時も、名刺交換で受け取ったら、思い出して相手の顔を自分に分かるレベルで描いておけば、後々になって接点があった時にどんな人だったか思い出すヒントに使っていました。
学生時代、デッサンなどで対象物を描くという経験をして、ある事実に気付きました。
それは「真実」という線があって、それを描かないことには絶対に対象物を描くことができない必須の線があることです。
今でも、絵を描いていて、幾つも線を引きますが、あるタイミングで引いた線で絵の質が一変します。
つまり、その真実の線を無意識に引いた時に、一気に絵を描くことに手答えを感じるのです。
しかし、デフォルメされたり、表面的な造形だけを追って描いていた学生時代の似顔絵には、そんな感覚はまるでありませんでした。
それこそ、意識が似ているか似ていないかだったからです。
さらに言えば、「絵を描く」という意味は、嘘を描かないことに尽きるとも思います。
よく絵を描きたい初心者向けに、線の引き方を練習しましょうと課題が出されます。
言い換えれば、歌が上手くなりたい人が音程やリズム感を学ぶように、美術では線を正しく引くことが最初の一歩です。
ある意味、それさえできれば、一気に中級者になるでしょうし、その人のセンスも加われば「絵が上手い人」になるはずです。
そこからは、ボイトレのように、正しい道具の使い方を学んで行くのでしょうか。
ではプロと何が違うのでしょう。
多分、「線を引く」という部分ではなく、「見方」「観察力」「関係性の把握」ではないかと思うのです。
例えば、どんな映像だとしても、BGMを変えると全く印象が異なる仕上がりになります。
バラエティーっぽくも、ドキュメンタリーにもできてしまうのです。
違うのは、映像ではなく、別の要素です。
見た人が感じるのは、「見えたまま」ではありません。
例えば、実際に目の前にあるように描くことと、カメラやモニター越しに見えている描き方を明確に描き分けられたら、「そこにある」という事実が同じでも、見た人に与える印象は全く別物です。
そんな感覚に面白味を感じているので、こみちにとって似ているかどうかはあまり意味がないのかもしれません。
真顔を描いて、誰か分かるということよりも、その人が不意に見せる表情をどこまで忠実に描き出せるか、そしてそのシーンを選んだことの方が実は大切だったりします。
この感覚は、こみちが少しだけカメラ好きだからかもしれません。
カメラはシャッターを押せば、誰でも同じ写真が撮影できます。
しかし、カメラの上手い下手は、どこのタイミングで何処をどう撮影したのかで、画質は絵を描く時の線に過ぎません。
光の入り具合や、周りの物との関係性などから、対象物の存在にどう意味づけをするのかがカメラの醍醐味で、良いカメラほど、その撮影に幅が作れます。
なので、プロカメラマンなら、こみちと同じカメラで撮影しても、全く異なる写真を撮れるでしょう。
意味づけ、動機付けの視点が全く違うからです。
目指したい場所が、こみちにとっては「似顔絵」ではなかったのかもしれません。
youtube を観ていて、井上和さんの表情がとても印象的で、このシーンを描きたいと思ってスタートしました。
いつもは顔や上半身だけということも多いのですが、左サイドにあるイラストも、似せて描いてみたりして、新たな試みも加えました。
実際に描いてみて、井上和さんの柔らかな表情を再現するのが難しく、一番時間も掛けましたし、まだyoutube にアップするまでに修正を加えるつもりです。
ここでは、こんな感じのイラストを描いたという報告なので、ほぼ完成したので紹介させてもらいました。
サッポロ一番の公式チャンネルに登場した日向坂46の上村ひなのさん。
アイドルっぽいポーズで、ウインクした後のワンシーンを描いてみました。
こみちの場合、似顔絵と言っても特徴を見つけて誇張して描くというよりも、雰囲気をどう伝えられるかをポイントにしています。
顎下に両手を置き、画面に向かって微笑む上村ひなのさん。
顔だけを描く時とは違い、腰から上まで描くので、肩幅や腕の長さなど、意外とバランスが崩れると背丈まで違ってしまい、印象が全く別物になります。
そうならないように、腕や肩のバランスにも注意してみました。
昨日、テレビ番組で、色鉛筆画を芸能人の方々が描いていて、その完成度の高さに驚きました。
特にデッサン(下絵)のクオリティーです。
絵を描く時に、上手いか下手かの最初の目安はデッサン力だと思います。
さらにその上の「芸術家」「クリエイター」と呼ばれる人は、個性を考えるようになるでしょう。
趣味で始めた時に、その好きな物を描くのに慣れると、人は短期間で上達します。
しかし、美大受験でも課せられるようなデッサンは、苦手に感じる人もいるでしょう。
理由があるとしたら、自分の描く線の意味を理解しているか否かではないかと思います。
ある意味、トレースやグリッドを使えば、下絵をより正確に写より、あとは「塗り絵」と同じ感覚で描けます。
つまり、ある完成度の絵を描く時に、「塗り絵」部分は器用ならすぐにできてしまう感性の領域です。
一方で、下絵の質は、技術そのもので、時間を掛けて反復練習するしかありません。
そう考えた時に、プレバトに出演されている芸能人のデッサン力がとても高くて、本当に芸能人は何でもできる人たちだ」と感心させられました。
テレビ番組とは別に、たまたま何を描こうかと思って描いたのがイヤホンケースだったのですが、シンプルな形状故に、描き甲斐があると思います。
そもそも「描く」という作業は、スマホのカメラ機能など無かった時代の知恵だろう。
確かに描くことは楽しくて、じっくりと観察することで見つかる発見も多い。
今回、描かせてもらった「筒井あやめ」さんの場合、彼女らしさがどこにあるのか、まるで間違い探しをしている感覚で、粘り強くみくらべるてやっと自分なりの納得に行き着いた。
最近、絵が上手い人って、描く技術が高い人ではなく、対象物の特徴をいかに深く掴めるかだと思う。
例えば同じ絵を描くにしても、下書きをトレースのような手法で行う場合、色塗り作業は塗り絵感覚でできるだろう。
もちろん、そのような楽しみ方も認められるべきで、楽しみ方はいろいろあっていいと思う。
しかしながら現実的には、元絵が不鮮明なものを描きたくなることも増えて、単純に線で区別することも難しくなってしまう。
不鮮明な部分をイマジネーションで補うのではなく、「よく分からない」なりに描くことがポイントで、アップでは疑ってしまう線も、少し離れて実感できるから面白い。
みなさんはどんな楽しみ方をしているだろうか。
バイク乗りなら、あのモンスターなバイクに憧れるだろう。
ロケットに跨るような存在感は、同じバイクでもクルーザーやネイキッド、最近流行りの125ccの小型では再現できない。
バイク画を描く時に大切にしているのは、そのバイクで何キロくらい出せそうかというリアル感。
何より中心線がズレてしまうと、真っ直ぐ走ることさえ難しく、乗り物画として破綻してしまう。
そんなことを意識しながら、久しぶりにバイク画を描いてみました。
今の画力では、この辺までが限界かも知れません。
細かく見るとまだまだ表現力が足りない部分もあって、時間的にもショートカットしたりで、「作品」レベルではありませんが、バイクっぽく描けたのではないかと思います。
いかがでしょうか。
もうYouTube に制作動画をアップしたのですが、結果的に言えば「外して」しまったようです。
似顔絵的にも顔立ちが整った美形なので、描くのが難しいのも事実です。
さらに、今回は顔だけではなく、上半身まで含めたポーズなので、さらに個人的な難易度は高くなりました。
しかし、このアングルを評価されるレベルで描くことができたら、描く上でのバリエーションはかなり自由になります。
まぁ、それだけに評価もされなかったというか、関心を持ってもらうことができませんでした。
元ネタが高精細な場合、描く時も得られる情報が増えるので描きやすくなります。
しかし、YouTube の動画から選んだワンシーンは、時に色味が不安だったり、境がはっきりしないことも多く、曖昧さをどこまで描けるのかが問われたりします。
描きたいポーズでも、目をつぶっていたりして、思うようにワンシーンを選べないこともあります。
今回の池田瑛紗さんの場合、割と一般的なポーズだと思うのですが、もう少しあとにあるおどけた感じの方が描きたかったシーンでした。
たださらに難易度が上がるので、今回はオーソドックスな方を選びましたが、結果的にはダメだったようです。
次回は、懲りずに乃木坂46のメンバーか、日向坂46のメンバー、又は格闘技選手から見つけたいと思います。
人を描いていることは伝わっても、誰なのか、どんなシーンなのかまでは伝わりません。
そこまで表現できるようになったら、納得できる画力に近づけるのですが。
イラストの中でも、室内を描くのは簡単ではありません。
こみち自身、少しだけパース画を描いていたことがありますが、遠近法を使った時に不自然さが拭えないことって割と多いからです。
今回の場合、教室の一角を描いているのですが、正確な描写ではなく、その雰囲気や空気感や距離感が伝えられたらと意識して描きました。
もう少し描き込んだら、YouTube チャンネルにもアップしたいと思っています。
この「何度目の青空か?」は、とても元気がもらえる曲の一つで、割と頻繁に聴きたくなります。
どこを描こうかと思ったのですが、意外とこれまで描けなかった教室のワンシーンを選んでみました。
トレース(下絵としてなぞる)など、方法はいくつもあります。
それは叶えたのは、カメラ(ここでは画像)が身近なものになって、絵を描くことが技術力ではなくなったからです。
それこそ、絵を描くことが苦手だとしても、トレースを使うと誰でもこみち以上に上手く描けるはずです。
多くの人は、何らかの形で、下書きを描けるまでにデッサンなどを繰り返し、見えたままをどう描けばいいのかを訓練しています。
絵が上手いか下手かの差は、素人レベルであるなら、この繰り返しに尽きるかもしれません。
なので、描くことが好きで描き続けた人はやっぱり上手く描けますし、慣れていなければそれなりになってしまうでしょう。
一方で、「トレース」や「グリッド法」を使えば、そんな手間さえも不要で、極端な話、撮影した画像のピクセルを描けば、写真そっくりになるのです。
このピクセル単位を倍の4、さらに9、16と増やし、理論上は紙一枚を単位にすれば、これまでの訓練で求められたレベルと同じになります。
言い換えると、デッサンの模写レベルは、紙一枚を一つのピクセルと考える人と、4分割、16分割と考える人とでは精度が違うでしょう。
なので、多くの人がセンターとなる目安線を描いて、そこから派生する様に他の位置を見つけています。
しかしながら、グリッド法を使った方法で写真そっくりに描く方法を、下書き部分から包み隠さずに紹介されている動画をYouTube で見つけました。
絵を描く人には特別驚く内容ではありませんが、「絵を描くって簡単だ!」と認識されたらと思うと、それこそAIが自動で描いてしまう現代なので仕方ないことですが、「描くこと」の価値が失せてしまうようです。
高精細なリアリズムを求めて描かれる超写実絵画は、髪の毛一本まで忠実に再現します。
そのことで、写真そっくりを超えて、まるで目の前に実在するかのような自然さを描こ出します。
しかしながら、そんな技法も、今では超高精細なカメラを使えば、グリッド法でも再現できることが分かります。
その意味では、そんな高精細なカメラでできてしまう以上、「描く目的」を見出すのは容易ではありません。
最も、写真そっくりな絵を描くことが、アートになるのかという議論もありますが、怖いなと思うのはプロを含めて描く意義を失ってしまわないかということ。
YouTube でもグリッド法などで描いている人たちには、この手法が分かりやすく公開されたのを受けて、描く目的や意義を見いだせなくなってしまわないでしょうか。
まして、グリッド法による模写レベルにも至らないこみちの画力など、存在意義すら奪われてしまいそうです。
現代は、ありとあらゆることがもっと簡単な方法でできるので、古典的な手法を続ける意味が失われやすいとも言えそうです。
シンギュラリティは、技術的特異点とも呼ばれていて、簡単に言えば人工知能が我々人間の知能を超えるタイミングを言うらしい。
よく例に出されるのは、チェスや囲碁、将棋などで人間と人工知能が対決し、その勝敗でどちらが優れているのかを判断したりする。
例えば、将棋の終盤で、相手の王を詰ませたい時に、そのパターンを先ずは徹底的に解析し尽くし、それができたら、中盤戦ではそのパターンのいずれかになるような駒運びを分析して行く。
これはこみちが今思いついた方法だが、問題解決のためにいつかのフェーズに分けて、それぞれの領域でパターンを作り出す。
それが大きな意味での骨組みをなり、さらに膨大な指し手のデータを加えていく。
すると、初めて見るパターンが少なくなり、つまりは蓄積されたデータの中で勝敗が決まることを経験する。
ではもしも、人工知能がそんな行程を経て人間に買ったら、人工知能が人間の能力を超えたと判断できるだろうか。
単語を幾つか伝えれば、それから連想される画像をAIが数秒で描いてしまう。
それを見て、画家やイラストレーターの仕事は奪われてしまうだろうか。
このことは音楽にも言えて、キーワードを与えれば、AIがそれなりに音楽を作ってくれる。
ここで人間と人工知能のどちらが優れているのかではなく、一個人として満足できるかがポイントだろう。
つまり、瞬時に描かれた絵を見て、満足できれば誰がどんな方法で描いたのかは時に問題ではない。
しかし、絵なのに妙に写真っぽかったり、逆に精密だけど可愛げもないというものだったら、嬉しいとは思えないだろう。
つまりは最終的に受け手がどう感じるのかが重要で、ある意味で人間よりも優れた人工知能ができたとしても、感じ取れなかればその人には不満が残る。
それこそ、精密さだけを追って、フルハイビジョンが2k、4k、8kとなったとしても、それを見分けられる受け手でなければ、もうその差にすら気づくことができない。
その意味では、「頭がいい」というような上向きの尺度だけでは解決できないことが日常生活でも増えて来た。
例えば、写真そっくりに描ける絵の上手い人がいて、でも実は下書きは画像データから読み取っていたとしよう。
別の人は、誰からも上手いとは言われない。でも妙に味があって、その人が描いたと分かるくらい個性的だ。
そんな両者をアートという視点で比べて、優劣など付けられないだろう。
つまり、さっきの将棋の話みたいだが、どう攻略すればいいのかという枠に収まらないからこそ、「アート」なのだと思える。
スマホのカメラ機能はミラーレス一眼カメラを超えたのか?
ある検証動画で、最新スマホのカメラ機能がかなり向上しているらしい。
というのも、一眼カメラと比べても、殆どの人には区別できないレベルになっているという。
本当だろうか。
ポイントは、スマホで撮った画像と同じような画像を一眼カメラでも撮って比べたことだ。
つまり、シャッタースピードから露光、焦点距離やホワイトバランス、画像の歪みなどを高次元でコントロールできる一眼カメラなら、スマホの画像に似せても撮影できる。
1から100までの方法で仕上げられる中の1つと、スマホの一枚を比較して、優劣をつける意味がどこまであるだろうか。
結局のところ、決まった方法で決められた通りがお望みなら、それこそ技術力によって生み出されたスマホで十分に満足できるだろう。
一方で、スマホの設定範囲では満足出来ず、もっと自身の意図を反映させたいと思ったら、一眼カメラはより適した選択になる。
人工知能と人間を比較して、人工知能が得意なことに人間の能力を合わせても、それは好みの問題だとしか言えない。
シンギュラリティを、能力の一面という意味で比較すれば、きっと人工知能は人間の能力を超えるだろう。
しかし、生きる喜びを与えて欲しいと思う人に、人工知能ができることはなんだろうか。
歌を歌うことや会話をすること、もしかしたらダンスも上手く踊れるのかもしれない。
しかし、思わず落ち込んだ人が笑ってしまう瞬間を、人工知能がどう学習できるだろうか。
こみちは、人工知能が数秒で絵を描くとしても、気になる景色に出会ったら、絵を描きたくなる。
楽をして写真に撮って終わりにしたとは思わない。
人工知能に代行して欲しくもない。
つまり、人間にはそういう部分があって、人工知能が今後どう進歩しても、人間の代わりを全て賄うことはできないだろう。
つまりはシンギュラリティの到来も、部分的な意味で人間の能力を超えることはそう遠くない日に来るだろうし、超えられない部分はもっと先にならなければカバーできないだろう。
何より、人間は自分らしささえも放棄し、そこにいるだけで満足するなら、シンギュラリティはもっと早く到来するだろう。
意外と上手い下手ではなく、その人が描いたから意味があるってこと、多くないでしょうか。
今の時代、結果だけではなく、その行程に価値を感じていたりします。
そこさえ理解できていたら、絵を描く楽しさは人工知能が奪うこともないでしょう。