東京03角田さん
角田さんを描いた回数もかなりの数になっている気がします。
今回描くにあたり参考にした画像が、いつもよりも高精細なものだったので、それだけ描く時にも色味の変化を細かく観察できました。
なので、仕上がったイラストも、それだけいつもは違う感じになった気がします。
今回は、ダウンジャケットの光沢感やフワッと柔らかい感じを描いてみたかったのですが、とても楽しく描くことはできました。
角田さんを描いた回数もかなりの数になっている気がします。
今回描くにあたり参考にした画像が、いつもよりも高精細なものだったので、それだけ描く時にも色味の変化を細かく観察できました。
なので、仕上がったイラストも、それだけいつもは違う感じになった気がします。
今回は、ダウンジャケットの光沢感やフワッと柔らかい感じを描いてみたかったのですが、とても楽しく描くことはできました。
こみちにとって、女性を描く時に特に気になるのは色味の細やかな変化です。
同じ色に見えて微妙に変化しているので、その辺は男性を描くよりも簡単ではありません。
今回は第二弾で、XGのCHISAさんを描いてみました。
とても肌がキレイで、上からの照明でさらに透明感が増し、そんな質感をどう描けば上手く再現できるのかと、とても苦労しました。
その意味では、まだこみち自身のアレンジを増やすよりも、見たままをどう描けるのかという視点で描いたものです。
完全度としては、もう少し努力が必要ですが、描きている中での手ごたえや楽しさは見つかったように思います。
たまたま見つけたyoutube チャンネルで、石膏デッサンをひたすら描き続けるという内容でした。
その時に思ったのは、「目の前置いて描いているの?」という部分。
癖でデッサンに特徴が出ているなら「そうなんだ」という話ですが、明らかに線が一定の効果で狂って見えたからです。
つまり、カメラで撮影し、それを元に描いているのではないかと…。
別にデッサンの試験でもない限り、直に見て描く必要性はないと思うのですが、そこで見たデッサンが広角レンズ特有の歪みに似ていたので気になってしまいました。
最近、youtubeであたしンちをよく見るのですが、「絵」としてはとてもシンプルで、でもキャラクターの表情や仕草がとても伝わって来ます。
ある意味で「上手いマンガ」だと思うのですが、「上手いイラスト」とはまた違います。
デッサンは、目の前の物を描くという前提があって、そこから始まります。
しかし、「コレを描こう!」というモチベーションは、描く技術以前の話で、生き方や興味の持ち方、趣味嗜好があらわれます。
好きな芸能人の似顔絵を描きたいと思うこともあれば、何の変哲もない景色なのにどうしても描きたいと思える瞬間があったりします。
言い換えると、描くに至った動機こそが大切で、それが省かれてしまうと、描いた根拠が全く見えません。
富士山の絵を見せられて、「嗚呼、富士山だ」とは思っても、特にそれ以上に想像を膨らませることはないでしょう。
つまり、なぜ描くに至ったのかというアプローチが必要で、逆に言えば、たとえ絵は下手だったとしても、ドラマチックなストーリーがあれば感動できるように思うのです。
だからこその「この絵」という説得力です。
上手いイラストを描くことは技術的な話で、上手くマンガを描くことはストーリーの作り方が上手いというでしょう。
なぜなら、デッサンが無駄に狂ったイラストは見る価値が感じられませんが、たとえ絵が下手だとしてもストーリーが面白ければマンガとしてはとても価値があると思うからです。
そして、マンガに含まれるイラストは、描き慣れれば確実に上手くなるもので、でもマンガで欠かせない「ストーリー性」は慣れるだけでは上手くなりません。
女性を描くのは難しく、それは同じような色味でも様々な色が使われていて、それだけに繊細な描写が求められるからです。
今回選んだアングルは、とてもオーソドックスですが、それだけに画力が伴っていないと描けない気がしていました。
実際に描いてみて、画面に対してどう描いていいのか分からなくなるインプット側の情報量不足は感じませんでしたが、アウトプット側のその情報量を反映させる難しさに戸惑いました。
まだまだ完成度としては十分ではありませんが、一定の手ごたえを感じることができました。
特に左頬の立体感を今回の個人的な目標にしていたのですが、左に流れる前髪との空間やフェイスラインへと回り込む曲面なども意識して取り組めたと思うからです。
もう少し精密に描けれるとよかったのですが、制作時間と作業の遅さもあって、この辺りは仕方ないとも思います。
先ずは、苦手な女性をここまで描けることができたとして、また挑戦したいです。
今回は、XGのMVからワンシーンを選んで、描いてみることにしました。
今は前回よりも少し当たりをつけて描いているところ。
前回が下側のものなので、まだまだ手直し中です。
似顔絵としても、雰囲気を反映させている段階ではなく、位置関係の確認段階です。
完成まではまだ時間が必要ですが、今回この構図を選んだ理由があって、その幾つかの課題を克服できるように頑張ってみたいと思います。
描きたいアングルではあるけれど、「絵」として成立させるのは簡単ではありません。
まだ下書きから着色を始めた段階で、これから修正も加えていくところです。
ここからどれだけ寄せられるのかが分からないので、描いていて不安と期待があります。
苦手な女性ですが、色味の僅かな変化を追っていけたらと思います。
腰を屈めたポーズを描いてみたのですが、顔を描写するのと同様に、ポーズもその人らしさが現れる部分だと思います。
実は、今回のイラストで、左側に立つ飯塚さんを描くことに苦労しました。
言ってしまえば、真っ直ぐに立っているだけなのですが、細かく観察すると微妙な違いがたくさん見つかって、それを修正するにはとても繊細な描写が必要だと知りました。
もちろん、立つポーズとして不自然でなければいいということもできますが、肩の引き方や背筋の伸ばし方がその人らしさに繋がります。
最初は右側の角田さんをどう描こうかというところから始まったのですが、気になってしまってなかなか納得できるような仕上がりになりませんでした。
しかも、横を向いた飯塚さんの顔立ちにも苦戦し、改めて人物画を描く難しさを実感しました。
クネクネする動きの角田さんと、そんな姿を少し冷やかに眺める飯塚さんとのシーンですが、その雰囲気が感じ取れていたら嬉しいです。
似顔絵などで誰かを描くことは多くても、複数人を密着した関係のままで描くのはハードルも高くなります。
今回はしっかりとしたデッサンではなく、ラフな下絵ですが、先ずはどれくらいまで情景を描けるか試してみました。
これ以外にも約10枚、いろんなポーズを選んで挑戦しました。
人間の厚みや関節の位置など、単体で描く時以上にポイントとなる部分を意識してみたのですが、以前よりも下絵段階での情報を多く描き込めた気がします。
ここからしっかりと手直しすれば、このアングルに関しては大丈夫そうです。
機会があれば、いろんなポーズを選んで描き、表現の幅が広がってくれたらと思います。
洗濯バサミがたまたま目に入ったので描いてみました。
全体的に色が乗り、形もほぼ確定したという段階です。
ここから、透明なプラスチック製の質感や光の反射、他に奥行き感なども描いてみたいと思います。
今回の描写では、洗濯バサミの先端に最も焦点が合っていて、そこから次第にピントが甘くなってボケも強くなります。
洗濯バサミを摘むあたりで既にピンが合っていないほどなので、その辺りの描き方も工夫できたらと考えています。
今の画力でそれがどこまで再現できるかは分かりませんが、もう少し「洗濯バサミ」と向き合って描いてみたいと思います。
今回、いつも描く東京03ではなく、ふと目に入った洗濯バサミを描いてみました。
人物を描く時、「線」にも味のような曖昧さが必要になりますが、モノの場合にはその曖昧さがリアリティを失う要因だったりします。
右のイラストは、下書きの段階ですが、「洗濯バサミ」の当たりをつけたものです。
ここから、洗濯バサミの材質を描き込むことで、さらに実在するイメージを高められると思います。
身近なものを改めて描いてみることで、デッサンとは言わないまでも表現力の基礎鍛錬になればと挑戦してみました。
飯塚さんは、表情が豊かな人で、イメージする顔がとても変化します。
そんな理由もあって、似顔絵として描こうと思ってもイメージと目で見ている原画との違いで、何をどう描けばいいのか迷ってしまいます。
結果、いろいろと試行錯誤を経て右のようなイラストになりました。
スーツやネクタイはササっと簡単に描いてしまいましたが、顔部分だけに絞ってもイメージするような仕上がりになるまで時間が掛かりました。
男性を描くよりも女性を描く方が難しく感じるのは、描く際に感じる情報量が多いので、同じような構図でも作業量が格段に違います。
ここ最近、コツコツと描いて来た一枚ですが、もうそろそろ終わりにしたいと思いつつも、修正や手直しできる箇所がまだまだたくさん残っていて、それをどこまで追い切れるのかという自問に悩みます。
以前の時の3人の距離感やそこにある空気感をどう描けるのかというような話をしたように思いますが、今にもスタンドマイク向かって歌い出しそうな雰囲気が感じ取れたら先ずは課題クリアです。
さらに、洋服を着ているということではなく、それが各人の好みや個性を反映しているのであれば、ちょっとした目線の位置が顔の角度、立ち姿に性格まで感じ取れるならそこもしっかりと描きたいところです。
男性に比べて、女性は情報量が多く、それをしっかりと描くには時間も労力もかなり使います。
もう少し手を加えるか、これくらいで完成にしてしまうか。
そんな感じで、ちょっと悩んでいます。
女性を描く難しさはいろいろありますが、例えば「肌」などもその一つです。
男性に比べて、明度差も色相差も少ないので、同じような色味の中で違いをしっかりと描き分けなければいけません。
アニメっぽく、単色でベース色を塗り、ハイライトやローライトをポイントで加えて三段階で表現することも方法です。
しかし、もう少し存在感を表現したいので、色設定を増やして描きたいです。
右上のものは、部分的には三段階もありますが、もう少し色味を増やしていたりします。
まだ空気感がないので、斜めに三人が並んでいるのに、そんな感じには見えません。
個別の描写に加えて、全体としての色味のバランスが整えば、その段階で空気感も生まれると思います。
とは言え、現状ではまだまだペラペラ感しかないので、その辺りがこれからの課題です。
今にも歌い出しそうな雰囲気まで再現できたら、個人的な課題はクリアなのですが。
いつ描いたものか忘れましたが、右に掲載したものは皇居を訪れた時にスケッチしたものです。
この下書きを使って作品を作るというよりも、気になった景色を自由に描くというつもりで描いたものです。
何が言いたいのかというと、最近の悩みとしては「風景画」って何だろうという話なんです。
よくあるのが、「道」や「線路」、「川」などと「空」とを組み合わせた風景を描く際の構図ですが、「描いた意図は何か?」という部分で画力向上の練習課題と作品作りとでは大きな隔たりを感じます。
ちなみに、描いた下書きは櫻田門になりますが、櫻田門がどんな建造物なのかを理解し、そこにどんな思いや意図を乗せて描いたのかがあってこそ作品としての意味もあると思っていて、遠近感の描写練習とは全く制作意図が変わって来ます。
こみち自身、単純に画力を向上させて、いろんな見たものを自身の手で描きたいと思って来た一人ですが、この下書きも練習の範囲であって制作ではありません。
言ってしまえば、右の下書きも着色してどんなにリアルに描けたとしても、「だから何?」という問いに答えられるものではありません。
風景画を見て、どう感想を持てばいいのかと思うのです。
なぜなら、川と空を組み合わせた構図を、日常生活でそんなに見かけるものではありませんし、見かける機会があったとしても、「いいねぇ、この川の流れ」とは思ったりしません。
人物画の場合、それを描く目的は対象となる人物を少しでも自身の腕で描きたいと思い、実際に少しでも描けた部分や感じられる雰囲気があると、それが伝わると嬉しいからです。
しかし、そもそもの前提として、「風景画」をどう描くことがいいのかがこみちには理解できていません。
もちろん、風景画も目の前に見える造形として描くのであれば、人物画同様にこの部分を表現できるだろうかと個別の課題には落とし込めます。
ですが、カメラやスマホで撮影した画像と何が違い、そこにどんな意味を乗せられるのかに悩むのです。
カメラを使っている人なら伝わると思いますが、レンズを通してしまうと肉眼で見る時とは少し異なっています。
その違いがあったとしても、そこにこだわりカメラの撮影を否定する人はいないでしょう。
逆を言えば、撮影は一瞬で終わるのに、数時間を費やして描く意味とは何かの方が悩みます。
風景画というものを否定しているのではありません。
風景画を描きたいけれど、「意味がありますか?」という話なんです。
こみち自身としては画力向上という課題にはできますが、例えば別の誰かが描いた風景画を見て、どんな風に感じるものなんでしょうか。
例えば、水彩画では、一般的なデッサンレベルで対象物をそのまま描いたりはしません。
ある意味で、全体的な雰囲気を描き手の感性で省いたりしながら印象的に絵作りするイメージがあります。
それもまた制作意図ではあるのですが、例えばその時に「木」が既に何の木なのかも分からないレベルで描かれてしまったら、その元の風景はどこまで重要なのでしょうか。
渓流の水しぶきを風景画として見せられて、例えばあまりの迫力で思わず仰反るほど水量に驚くでしょうか。
水の流れる音や風を感じられるでしょうか。
行ったこともない場所に一瞬で移動し、そこに立っているような錯覚をその風景画から感じられるでしょうか。
こみちとしてはそんな風に考えてしまうので、カメラで動画撮影した映像以上に風景画を見て感じる絵作りに自信が持てません。
見たままを描くことは、練習課題にはなりますが、見たままの絵を見て、スケール感や重さまで伝えられるのは簡単ではありません。
しかもそれはカメラ以上となるとかなり難易度が上がり、わざわざ描く意味が現代だからこそ見つけられないのです。
対象物の本質を理解する難しさに直面し、「コレを描こう」と思うのは簡単でも、「描いたもの」に何か意味あるメッセージを乗せるのは簡単ではありません。
今言っているのは、テーブルにリンゴそっくりな鉄の塊が置いてあって、それは本物そっくりに着色もされているけれど、その普通の重さではない感覚をどう絵として描けるのかということに似ています。
描いているのは「XG」で、3人の立ち姿になります。
男性とは異なり、ファッションや髪など、女性を描く際に欠かせないポイントがあるので、それをどこまで再現できるかが問われます。
右の段階は下書きをして、個々に色を載せたところですが、ここからの微調整が最も完成に影響を与えるので、注意しなければいけません。
苦手意識があるので、少しでも上達を感じられる手ごたえが得られたら嬉しいのですが。
今回描いていたのは、東京03の舞台でハーモニカを吹く角田さん。
スポットライトに照らされた雰囲気まで表現したくて、挑戦した一枚です。
柄の多い衣装で、しかも大きなシワがあって、それらをどこまで正確に描写するのかも問われた構図ですが、完璧には再現できなかったものの、全体としての雰囲気は上手く伝えられたのではないかと思います。
パッと見て、今にもハーモニカの音色が聞こえそうだったら、大成功なのですが…。
手すりの描写など、結構省いている部分もありますが、そのシーンを見たことで、舞台がさらに印象深いものになれば嬉しいです。
舞台に立ちハーモニカを奏でている角田さんを描いています。
今回の制作で課題にしているのは、照明に当たっている様をどこまで再現して描けるのかです。
完成までまだまだ修正したい部分がありますが、大まかに色を乗せたところで、ここから細かな修正をします。
今日は少ししっかりと描いて、明日はどこかのタイミングで動画としてアップしたいです。
絵を描く時に、「形」を追って線を引いてしまいます。
例えば、右側載せたイラストは単なる線ですが、見方によっては何か意味あるものにも見えてきます。
トレース(なぞり書き)をしたことがある人なら、境界線を引いているだけなのにそこに作り出された線の集合体が急にリアル情景に見えて驚いたことがあるでしょう。
また、描く人によって現れる「癖」は作風となり、本当の線ではないけれど、それとは異なる意味を持つものへと変化します。
例えば、その下に載せた線の集合体も、「線」と言ってしまえば線でしかありません。
しかし、何か意味や作為を探してみると、自身の経験から呼び出される記憶があります。
ただ、絵を描く上では、明度差を探して線を引こうと思っても、空に浮かぶ「雲」や衣類の「シワ」を描写するのは困難です。
しかも、不慣れなら描きたい線とは異なる線を引き、集合体として確認してもそれは意図したものとは別ものです。
その意味でも、「線」として対象物を観察してもいいのかという疑問に行き着きます。
例えば、最近の話では「線」として描くのは下書きだけで、その後は「面」として考えていることが増えました。
一番下に掲載した男性二人のイラストで、特に右側の人物の顔を「線」として描くのは手間が掛かります。
理論的には「線」でも「面」でも同じ結果ではありますが、描く手間としては「面」として描く方が感覚的に楽に感じます。
今回は「線」という身近なものから、広がって行く創作の世界観を考えてみました。
人物画を描こうと思った時に、その人の顔立ちに似せたくなります。
また、全身を描くならプロポーションも同じで、実際と近い方が臨場感も生まれます。
「絵」だから無意識に加工しやすいのですが、理想に近づけて描いてしまうとどれも同じような仕上がりになって、描く意味が失われます。
意外と椅子に腰掛けた人物を証明方向から描けないということはないでしょうか。
股関節から膝頭までの「距離」を意識するあまりに、それを描こうとしてバランスを崩してしまうことがあります。
しかしながら、どんなに長い「棒」も点と点が重なるようなアングルで覗くと、当然ですが距離は感じられなくなるはずです。
つまり、イスに腰掛けた時の太もも部分の長さも短く見えて不思議はありません。
青色のネクタイの人が飯塚さんですが、微笑むように画面の外にいる角田さんを見つめています。
今回描いた理由でもあるのですが、飯塚さんの角田さんに話す時にこのアゴの角度が「あるある」なんです。
特に東京03のコントを見ていない人にすれば、気にもならない表情なのですが、この表情を見て「フリ」なんだと気づきました。
「フリ」というのは、ストーリーを展開させる演出方法で、あえて先に見せることで印象を深めて、展開後に「嗚呼、なるほど!」と伏線が回収されるためのキッカケです。
実際、東京03のこのコントでも、先輩役の角田さんに見せた「この表情」がフリとなって、後に続く展開がより際立っています。
顔だけではなく、両肩の傾き具合や背骨の斜めっている部分も、結果的ではなく、実際にそんな風に飯塚さんは座っていました。
手足の単純な長さやバランスだけではなく、その人物の人柄が表れていたら、そこまで描けるようになりたいです。
今回もまた東京03の舞台シーンから選んだワンシーンを描きました。
電話で話している角田さんとその相手の黄色いコート姿の後輩との会話に、飯塚さんが少し不満げに見つめている場面です。
実際のシーンではあり得ない構図ですが、舞台ならではの演出で、きっと客席からその関係性がよく伝わったことでしょう。
今回描くにあたり、主人公となる角田さんに一番照明があたり、後輩の方にも光が当たっているのが分かるでしょうか。
一方で、このシーンではサブになる飯塚さんには彼らよりも弱い照明です。
描写の部分では、座面に深く腰掛け、それは先輩らしい風格を表しているのかもしれませんが、角田さんの座り方や両膝頭の突き出し感をしっかりと観察しなければいけません。
また、飯塚さんとの関係では、二人の間にある木製テーブルも存在感を出し過ぎないようにしつつもしっかりと描きたいところです。
後輩の方には、いわゆるマゼンタ色の照明が当たっていて、黄色のコートの衿もとが淡いピンク色に見えます。
さらに最も後ろの濃紺の背景との空気感を含めて、舞台のワンシーンらしさをどこまで描けるのか試してみました。
何か単体を描くというステージ抜けて、今は関係性や全体的な広がりまで描けるようになりたくてそんなシーンを好んで挑戦しています。
今回もまだまだ修正や精度を上げられる課題は残っていますが、概ね描きたい雰囲気にはなっていると思います。
ここの所、描きたいのは「雰囲気」です。
例えば東京03がコントで見せる表情や雰囲気を描くこと。
三人それぞれを似顔絵として寄せて描くのも大切ですが、例えば飯塚さんと豊本さんの立ち方が僅かに違っていて、それは性格や役柄が影響しているはずです。
また、自転車に跨ったまま二人に話し掛ける角田さんのどこか愉しげな雰囲気もまた、三人に関係性を表しています。
さらに言えば、舞台の奥行き感や照明による演出なども、かなり実際とは異なるのですが、手を抜いた割に雰囲気は伝わって欲しいという欲張りな気持ちで描きました。
細かく見てしまうと、かなり粗い描写なのですが、三人の温かな雰囲気が感じ取れるような仕上がりになっていたら嬉しいです。
地面をなる水平線を一本引き、垂直方向に幹を描き、さらに枝葉を加えたとしましょう。
確かピカソだったと記憶していますが、「模写」している内は描き手としてまだまだなんだそうです。
彼曰く「木」という形を習得すると、実際に存在する木々と変わらない描写ができると言います。
つまりそれが意味するのは、りんごでも花でも、人物でも、そこに生きている物としての生命感や躍動感を描き手がどこまでくみ取り、学んだのかということでしょう。
桜の木と松の木、杉や檜の枝ぶりの違いを理解していなければ、正確な描写は不可能ですし、さらに言えば、地域性や気候との関係性を知らないと景色として不自然な配置になってしまいます。
「創造」という描き手の空想も大切ですが、最近何を描けばいいのか悩むことが増えたのも、今の画力でデッサンできるのかという視点ではなく、それをなぜ描くのかという意味で根拠が見つからないからです。
例えば、推しのタレントがいて、その方の似顔絵を描いた時に、他人が誰を描いたのか分かることに意味やモチベーションを感じられません。
それこそ、その風景の音や匂いまで描くような気迫にはならないのです。
「上手く描いたね」という感想を最高点とするなら、目的を持たないままの作画はそこを越えられません。
写真は、レンズの品質を通して、光を受け取り目の前の対象物を再現しています。
感情としてではなく、光学的な扱いとして成立しています。
では我々がそれとは異なるアプローチで、対象物をより深く感じ取ることはできるでしょうか。
レンズでは、音までは再現できません。
音は不可能だとしても、そんな何かを描くことはできるでしょうか。
絵を描く時に心掛けていることは、「見たままを描く」こと。
なのでモチーフを見る時も、下書き段階では水平や垂直に対してどれだけの角度で傾けているのかを見抜くこと。
さらに着色段階では、明度や色相、彩度をRGBに置き換えて、ピンポイントで色味を観察します。
しかしながら、人間の眼は錯覚を起こしやすく、例えば水平も垂直も簡単に間違えてしまいます。
よくあるミスが目の前に広がる景色を全て描こうと思ってしまうような構図になった時。
カメラでいう超広角レンズでやっと撮影できるような構図は、少なくともこみちには追い切れません。
安全なのは、角度では60度くらいまでで、真っ直ぐにモチーフを見て全てが視界に収まる構図であること。
しかし、そのような構図で屋外スケッチする時に困るのが、視力の悪さから来る観察不足問題です。
悪い意味ではなく、化粧をすると顔の骨格さえ見誤ります。
顔の縦横の比率は、髪型でも惑わされますが、意図的に施された顔表面の色味の変化で、凹凸や丸みを間違えます。
上から辿った線と下から起こした線が、想定される位置で交わらず、別の位置どりから再確認しても、さらに交点となるポイントが僅かに合いません。
それは、化粧によって錯覚するからで、丸顔だと思い込んでいたら、面長だったというようなことが女性を描く時に起こります。
また男性と比較して、女性のファッションは骨格を感じさせたりさせなかったりと上手く誤魔化されので、シルエットを追う時でも身長やサイズ感の点で男性とは異なる難しさがあります。
また、男性に比べて、女性の顔はトップライトの色味から比較的暗い部分までの変化が緩やかで、色調の変化がとても繊細です。
その辺りも含めて、画力の乏しいこみち実力ではまだまだ「女性」をしっかりと描くことができません。
ただ最近は東京03の面々を積極的に描いていますが、合間を見て「女性」を描くことにも取り組んでみたいと思っています。
そのためには、苦手な「化粧」以外に、「髪」の描写も不可欠なので、課題がかなり増えます。
ボチボチとマイペースで、今後も取り組めたらと思うので、また描いた際には報告させてもらえたら嬉しいです。
描く時は、何らかのテーマを見つけて、それを達成できるようにモチベーションを上げています。
例えば、今回取り組んだ東京03の人気コント『バンドマン』より、飯塚さんと角田さんのお二人を描かせて頂いたのですが、「似顔絵」という表向きの課題とは別に、「革ジャン」を描くことにも取り組みました。
同じ衣類でも、表面がツルツルした革ジャンは、光を反射しやすく、シワの尖った部分が線となって光って見えます。
つまり、革ジャンを革っぽく描写するには「シワの描写」が必須で、適当にそれっぽく描くことも不可能ではありませんが、正面からしっかりと描こうとするとデッサン力が試される課題です。
また、同じ革ジャンを羽織った二人ですが、より高級感のあるのが右側に立つ飯塚さんのもので、革特有の光具合が少し穏やかでツヤツヤとした革の光沢感が感じられます。
一方で角田さんが羽織る革ジャンは革が硬く、体のシルエットに少し合っていない雰囲気も特徴です。
骨格を想像し、そこに衣類を重ねるように描くことで、衣類の持つ厚みまで描くことができると思います。
この辺りの描写力はまだまだ試行錯誤が必要ですが、描くという意味で、何をどこまで表現するのかの範囲を広げられるような課題は描いていて楽しいと感じます。
「絵」を描く目的や意味を考えると、「スマホ」の存在を意識してしまう。
「スマホ」には「カメラ機能」が付いていて、しかも圧倒的にキレイが映像も画像も手軽に撮影できてしまう。
そんな時代において、アナログ、デジタルを問わず、「手書き」する必要性はどこにあるのだろうか。
例えば「トーレス」や「グリッド法」を用いれば、手書きでもかなり画像に寄せて描くことができる。
しかし、日頃からカメラレンズの焦点距離による違いを知っている方であれば、肉眼でみたモチーフを描いたものか、カメラで撮影した画像を使っているのか、「焦点距離の見え方の違い」からでも識別できるだろう。
だから何?ということではない。
むしろ、スマホであれだけ簡単に、しかも正確で美しく撮影できてしまうのに、長い時間と手間ひま掛ける意味はどこにあるのかということ。
この文章を書いている時、たまたまNHKの日曜日美術館がテレビに映っていて、その内容を片耳で聞いていると子どもたちや美術にあまり関心がない人でも分かりやすく、楽しめる作品があることを紹介していました。
絵を描く目的は、上手いことではなく、それを見ている時間に何か心が動いてくれたかということ。
「ヘェ〜」でも「何だろう?」でもよくて、一瞬でもその作品を見て心が反応してくれたらそれで十分なのでしょう。
見られることもなければ、心が動くこともありませんから。
絵を描く時に感じる分岐点があるとするなら、平面の「紙」に平面の「絵」を描く段階から、「紙」に奥行きを感じて「立体」として描こうとする意識が芽生えた時だろう。
そのためには、トレースして描くことをやめて、しっかりとデッサンを基本から学ぶことだ。
デッサンも毎日描き続ければ、才能のある人なら一年でも相当に上手くなるだろうし、こみちのような凡人でもどうにかここまでくらいなら描けるようになった。
デッサンの重要性は単に正確に描けることだけではなく、例えば右の絵で分かるように、角田さんが座っている周辺に置かれた物の大きさや距離感まで描けるようになることだろう。
空気感というような表現をすることがあるけれど、対象物を正確に描くだけではなく、それがどんな環境の中にあるのかまで再現するには「基礎力」が欠かせない。
個人的には、対象物の形はもとより、重さやサイズ感まで伝えられる表現力はぜひ手に入れたい部分だと思うし、それができるようになるには「描くこと」を改めて見直す必要がある。
まだまだ表現できない場面もあるけれど、少しずつ表現できるシーンが増えて行くのは嬉しい。
角田さんについても、照明の照り返しなどいくつか表現力を欠いている部分がある。
ある意味ではこれをベースに、全体とのバランスを整える行程があると表現力はさらに向上させられるだろう。
また、右側の植物もかなり手を抜いているので、そこの描き込みができると深みが増しそうだ。
以前、漫画家さんが同じ登場人物をいとも簡単に描いているのが凄いと思っていました。
今回、東京03人気コント『ピザ』の中で、個人的に特に気になった表情を3つ選んで描いてみました。
表情としては、突っ込み、無表情、思惑と角田晃広さんの変化を描けてみることにしました。
人物画というと、どうしても真正面のすまし顔を選んでしまうのですが、こみちとしてはいろんな角度から、「表情」を描きたくなります。
個人的な満足度はまだまだですが、例えば一番左側の一枚は、東京03のメンバー飯塚さんに向かって「ちょっと待った!」と声を掛けた場面です。
真っ直ぐに向いて発する言葉ではなく、少しアゴを上げ顔を傾けている辺りがさらにポイ感じを印象づけます。
顔を描く時に、中心軸が斜めにズレていると、どうしても描写がブレてしまいます。
今回は苦手な角度ではありましたが、この角度をあえて描いてみたいと思って挑戦しました。
描ける角度を増やしながら、苦手な描写にも手を出して、段々と画力を高めていきたいです。
今回は、ピザのマルゲリータを描いてみました。
イラストとして描く場合、花や草木は、大まかなバランスが破綻していなければ、それっぽく見えるので、初心者向けにも適したモチーフと言われます。
同様にピザも、少しくらい違って描いたとしても、それだけで全く異なるものになってしまうことはないので、割と取りかかりやすいのではないでしょうか。
主に、黄色からオレンジ、茶色、赤色くらいまでの色相が多く、丸い円形のピザ生地に熱せられたチーズをどこまで再現できるのかが課題です。
チーズを黄色やオレンジ色の一色で塗ってしまうと、急にウソっぽくなるので、光に反射し白く光っている部分や、光がチーズの内部まで照らし、時に淡い緑色に見えたりする部分までを丁寧に観察することが大切だと感じました。
また、リアリティを出す方法として、ピザ生地の厚みや外側の焦げ具合、また木製の皿との接する部分などもよく観察することでしょう。
個人的には、このピザのイラストの完成度は70点くらいだと思っていて、「ピザに見える」と思ってくれたら嬉しいです。
原画と比較すると、位置や色味が異なる部分はまだたくさんあるのですが、デッサンとして描いているのではないし、作品として「ピザ」を表現したかったということでもありません。
「マルゲリータ」というピザがあることに意味があって、そのイメージとして使いたくて手がけたものです。
とは言え、チーズのとろみ感をどこまで雰囲気として描けるのかも気になっていたので、現段階の画力ではこんなレベルだったという基準ができました。
また機会があれば、食品なども描いてみたいと思います。
描いたのは、目の前にあったクリップ。
実はコレ、こみちにとっての原点でもあります。
というのも、こみちにとって「描く」とは、文字を使わない「伝達方法」という位置付けなので、例えば右のクリップを見て大きさとか、色味とか、見たことで何となく伝わる情報があるはずです。
つまり、「上手い絵」とは、その伝えたい情報を適切にコントロールできているもの。
決して「写真そっくり」という基準ではありません。
このクリップは金属製で、緑色の塗装が施されています。
もしもこれが木製で、木を切り出して作ったクリップだったら、描いた時にその違いまで表現することができるでしょうか。
つまり、こみちが思う画力とは、そのわずかな違いを描き分けられる観察力と描画力の高さです。
例えば、画力のある人だと思える基準は、硬くくっきりした物ではなく、雲のように見えているけれどその曖昧さが観察力や描画力がないと再現できない場合です。
光の反射や透け感なども、繊細な描写を必要とするので、それがしっかりと表現できると高いスキルの持ち主だと思います。
一方で、形のはっきりしたものでも、スケール感の描写ができるとそれは評価するポイントになるでしょう。
何も比べるのもが横にないのに、一見してその大きさや重さが感覚的に伝わるようなものです。
石膏のデッサンなどでも、そのものの描写ではなく、周囲に伝わる空気感や空間を再現できていると上手いなぁと感じます。
というのも、モノの形や色は、周囲の影響があってできるので、その描写がないものは情報量の面で損をしています。
つまり、りんごを描いた時に、何となくハイライトを描き加えてしまう癖がつくと、描いたものからリアリティが減って、どこか平凡なものになってしまいます。
どこにでもあるりんごではなく、ここにあったりんごを描くために、何が必要なのか考えて描きたいからです。
みなさんは、どんなことを考えて描いているでしょうか。
自己満足な世界だとしても、あまりに適当過ぎると描いても楽しく感じないのは、描く楽しみがモノとのコミュニケーションにあるからかもしれません。
小峠さんの似顔絵は、実際に描いてみると気づくのですが、「線」で描くだけではなかなか似せられません。
そこで、「面」として形を追う必要があるのですが、それでも思うようには描けなくてかなり苦戦しました。
結局、描けたのは右のような一枚ですが、見ていただくと気づきますが、やっぱり小峠さんっぽさが引き出せていません。
ただ、描くことは楽しいことで、上手く描けないこともいい経験になります。
実際、3年前にも描いたのですが、その時と比べて基本は変わっていませんが、最近取り組んでいるシワの描写などにももう少し上手くなりたいです。
今回はテントの中に隠れようとするシーンを描いてみました。
豊本さんを描くのはもちろんですが、テントの質感なども再現したくて挑戦しました。
またここから加筆する予定ですが、さらにどこまで質を上げることができるでしょうか。
修正や調整したい箇所もまだまだあるので、どこまで丁寧に向き合えるのか。
いつもここからが焦ってしまうので、一歩進めるように作業します。
絵を描くことが好きな人なら、絵を描いて生きて行きたいと思ったことがあるだろう。
こみちもそんな風に思っている。
思いつくのは、デザイナーやイラストレーターなどの職種で、「絵描き」という職業は「芸術家」色が強くて生業にするには難しいと思う。
なぜなのかと言えば、「描いた価値」が簡単に評価されないから。
好きな絵描きさんの個展を見に行ったことがあるけれど、人気のあるその人でさえ、入場料や即売会の販売収益で生きて行くのは大変だと思った。
実際、その絵描きさんは都内で週に何度か絵画教室の講師をされていて、でもそれだって誰にでもできることではない。
今の時代なら、例えばyoutube を上手く活用するという手段もあるけれど、「絵を描いて生きて行きたい」人の中で限られた人だけができることだろう。
一昔前前なら、「絵を描いて生きて行く」なら、デザイナーやイラストレーターの方がずっと裾野は広かった。
デザイナーと言っても、担う仕事は幅広いからだ。
それに、特別な経歴や資格などは必要ないし、タイミングよくどこかのデザイン事務所に入れれば素人からでも「プロ」になれてしまう。
とは言え、現実的にはデザイン事務所に入ることも簡単ではなく、自身の世界観を示す意味でも作品を作る必要があるだろう。
自動車の運転がほぼマニュアル車からオートマ車に移行したように、例えばデッサンができなくても、写真と見分けのつかない絵を作ることができてしまう。
特に最近はAIで絵を描くことができる時代になり、「描く」というスキルで評価がされることが段々と難しくなるだろう。
その点を理解して、「何をどれくらいの質で描けばいいのか?」と改めて考えた時に、正直、今は何を描けば評価されるのかこみちには分からない。
例えば、「似顔絵を描く」ということも、スマホで顔写真を一枚撮れば、写真そっくりなタッチからイラストチックまで、圧倒的な速さで描いてくれるだろう。
つまり、「写真を撮る」ことができれば、その後の作業はもう描いた経験など必要なくなる時代なのだ。
絵を描く人なら経験あると思うけれど、例えば洋服のシワをある程度正確に描くのは中級者くらいでないと思うように描けない。
なぜなら、基礎的なデッサンができないと複数のシワが組み合わさった時にどうしても不自然になってしまうからだ。
とは言え「描くスキル」そのものは難易度が高い技術だとしても、すでにAIはそれを再現するレベルにあって、今さらイラストレーターやデザイナーがどれだけの描写力を持っているのか気になるだろうか。
デザイン事務所のオーナー目線で考えたら、それこそイラストレーターやデザイナーを雇うよりも、プログラマーを雇いAIで画像を作るスキルを求めるだろう。
つまり、「なぜ描くのか?」という部分が重要で、そこに尽きるのかもしれない。
喜怒哀楽を描き分けたくて、人物画も好んで描いています。
そんな流れもあって、今回の一枚は角田さんが温かい笑みを浮かべて帰ろうとする飯塚さんを引き留めた場面です。
まだ下書きにプラスして、顔のおおまかな色付けを始めた段階です。
どこまで理想にちかづけるのかも分かりませんが、ボチボチと時間を見つけては加筆しながら描いています。
見えたままを描くようになって、例えばポイントとなる範囲が確認できないような構図でも挑戦できるようになりました。
描いた後でトリミングするような時はいいのですが、描きたいモチーフの全体像が確認できない時の制作は苦労していました。
今回も足が切れていて、しかも横向きになっているので、あまり描いていない構図です。
描けるなかぁと心配でしたが、どうにかここまで完成させることができました。
誰が言ったのか覚えていませんが、例えば「りんごがある」として、そう言った人と言われた人がイメージする「りんご」は完全に一致することはありません。
「絵に描いたりんご」を指差し、「このりんご」と言えば、目の前に見える物体を共通で認識できます。
とは言え、最近思うのは、「視覚化の限界」です。
もう少し具体的に言えば、「見えている瞬間」が全てとは限らないことに着目してしまうからです。
先の「りんご」で言えば、確かにそこに描かれた「りんご」を見ている訳ですが、例えば補足情報として「青森県産の」とか「昨日買って来た」のような背景を知っていると無意識のうちに先入観が生まれてしまいます。
さらに言えば、デジタルアートなのか、油絵なのか、画材は何を使って誰がいつどこで描いたのか。
「絵は絵」という認識なら、本来補足情報は役立つません。
しかし、「より深く理解する」という時に、我々はそこには描かれていないことも関連づけたりもします。
そんな行為を否定している訳ではなく、でも肯定している訳でもありません。
ただ「視覚化」と言っても、そこにはコントロールすることができない「限界」があると思います。
表題の「ピカソの偉さ」も、まず「偉い」とは何か定義しなければyes ともnoとも言えないでしょう。
そして、厄介なのはその定義で、例えば日常生活で特に美術に興味がない人にとっては、ピカソさえも名前くらい知っている有名人でしょうし、美術が好きな人でも憧れや尊敬ではなく「偉い」という言葉がしっくり来るのかは疑問です。
「偉い」とは、人ができないようなことをできてしまう人なのか…。
例えば、100mを誰よりも速く走った人は、偉い人なのでしょうか。
仮に偉い人だとして、次のレースでその人に勝利した人が現れたら、もっと偉いことになるのでしょうか。
こみち自身も絵を描くことは大好きですが、それ以外は特に続けて来たこともなく、唯一続いていることに過ぎません。
今もしも「なぜ描くのか?」と自問自答しても「それしかできないから」としか答えられません。
こみちにとって、ピカソがどんなに素晴らしい人なのか、本当のことはよくわかりません。
ただ、現時点でピカソの描いた作品を見て、「どんな絵を描いたのか?」よりも「なぜ描いたのか?」という部分に興味があります。
それはつまり、例えば今こみちが「りんご」をモチーフとして描こうと思えるのかというと、描きたいとは思いません。
理由は単純で、そこに描こうと思う動機が浮かばないからです。
それはつまり、風景画を描く時にも悩むのですが、今の画力を試したくてちょっと手強い構図に挑戦する時に感じるワクワク感も、回数を重ねて行くと描く前から完成度が分かってしまい描いても楽しくないのです。
ある意味で「りんご」を描くのはそれに近いと思います。
ピカソがあるタイミングで肖像画を描いた。
それが写真で撮影したようにリアルでも、単純に下手だったとしても、こみちには驚くことではなくて、絵を見て思うのは「なぜ、この絵だったのか?」ということ。
多分、写真と見間違える技術で描ける人は、時間さえあればも何枚でもそのレベルで描けるでしょう。
でも描く側からすると、描く前から予測ができてしまう構図は、「絵を描く」という作業ではなく、「単純な流れ作業」になってしまいます。
ただ、少しマニアックなことを言えば、撮影するカメラによっても、使うフィルムやレンズによっても写真の写り方や色味は微妙に変化し、「写真っぽい」という曖昧さでは語ることができません。
その僅かな差を絵で描き分けることに意味があるのかは別の話かもしれませんが、描き手からすると今の画力ではちょっと厳しいくらいの加減が描く楽しさになっています。
つまり、ピカソがそのタイミングで、どうしてその「絵」を描いたのかが気になるのは、冒頭で触れた視覚化の限界さえも超越したのか、超えられなかったとしたらどこまでそれに迫ったのかには興味があります。
映像による表現方法やマンガのような手法から生み出せる世界観とはまた異なる次元にいるので、「絵などなくても別の何かがあればいい」ということではないと思います。
人は無意識のうちに、感触を会得します。
いつも触れている物なら目をつぶっていてもその形状や質感が分かることに似ています。
つまり、ある絵を見て鳥肌が立つような感動を覚えるのは、潜在意識の中に感覚として呼び起こされるものがあったからでしょう。
なので、何も潜在意識にない人には、どんな絵を見ても特に感動することも起こらないと思うのです。
それは小説を読み返した時に、以前とは別の視点からストーリーを追ってしまうのに似ていて、人生経験やその時の感情によって、見え方が変わったりすることに似ています。
どれだけ多く人の心を響かせられたのか。その人数の多さが絵としての価値なのかも検討しなければいけません。
つまり、誰もが経験することに近い感覚ほど、感動する可能性が高くなるからです。
しかし、ある特殊な経験によってしか感じられない感覚も、蔑ろにするべきではありません。
多くの人にはよくわからない絵だったとしても、あるタイミングでその描かれた意味や思いに感情が揺さぶられるかもしれないからです。
画像として知っている絵も、実際に見るとサイズ感や画材の粗さなど、描いた人の感覚が全く異なって伝わったりします。
絵を図形として見ている時と、立体視した時では見え方感じ方が異なります。
ピカソが凄いかどうかは分かりませんが、彼が生きた時代や文化、生活様式を知らないと作品を描こうとした動機も分かりません。
ただ、全く同じモチーフを一見すると同じに見えても、横に並べて比べてみると違って感じることはあります。
目で見えた視覚化された情報以外に、我々も無意識に何かを感じとっているからでしょう。
それは歌の上手さでもそれは起こります。
上手い人の歌を聴き、素直に上手いと思う。
でも別の人が歌ったら、なぜか感情が揺さぶられて涙してしまった。
この違いってどこにあるのでしょうか。
アートの不思議さは、言葉にしづらいから難しいです。
それに、今はそう思っていても明日には別の気持ちになっているかもしれません。
主役が偉いのか、脇役が偉いのか。
その答えはいろいろあっていいはずです。
キャンプ場にスーツ姿で現れた豊本さん。
社長の角田さんがいなくなって、飯塚さんにお願いをする。
しかも、その迫り方がちょっと怖い。
そんな場面で見せた豊本さんのワンシーンを描いてみました。
下書きから全体的に着色を済ませた段階ですが、ここからさらに描き込みたいと思っています。
青く見えるのはテントで、この後、そこに豊本さんは身を隠します。
鬼気迫り雰囲気が伝わるように頑張ります。
東京03のコントが好きで、よくお気に入りのシーンを描かせてもらっています。
今回は「因を探して」というコントのワンシーンです。
豊本さんの表情が印象的で、その顔を見て笑う飯塚さんがまだ気づいていない角田さんにも見せるという場面。
東京03のお三方は演技力もあって、コントというかドラマを観ているような感覚になるのですが、一瞬、豊本さんが笑いそうになって、それがまた上手いからこそ観ている側は可笑しくて、個人的にもお気に入りなんです。
デッサンとしては、形が狂っている部分もたくさんありますが、下書きからフリーハンドで描くのも、完コピしたいわけではなくて、雰囲気を描きたいと思っているからです。
絶対に表現したいのは、豊本さんの表情と飯塚さんの表情。
さらにウインドブレーカーとスーツの質感の違い。
光の当たり具合ももう少し上手になれば、さらに臨場感が伝えられたかもしれません。
新たに公開された東京03の人気コント『因をさがして』より、このシーン。
まだ制作途中で、ちょうど飯塚さんが羽織っているウインドブレーカーの陰影を描き始めたところです。
衣類のシワは、グラデーションが多くて描くのが大変ですが、質感や雰囲気をしっかりと表現するためには避けられない部分。
苦戦しながらも、少しずつ描いていこうと思います。
完成したら、youtube チャンネルにアップする予定です。
誤魔化してしまうこともできますが、逃げないで向き合うことで画力を上げたいと思っています。
今回選んだシーンは、顔のドアップ。
画力を試すには絶好の一枚ですが、他に描くものが無いだけに逃げ場もない。
まだ制作途中ですが、描き進めて行くとまだ到達できていないレベルが求められる。
だから、とりあえずここまで描いたものの、この後にどこまで精度を上げられるか、楽しみもありながらプレッシャーでもある。
構図でコントシーンを再現するのではなく、演者の表情や仕草を描くことで伝えられるようになりたいと思っています。
「誰を描いているのか?」ではなく、「何をどう感じている場面なのか?」を伝えられるような画力を模索しています。
まだ、全体の色づけも終わっていませんが、少しずつ手直ししながら表現方法を見つけているところです。
どこまで狙い通りに仕上がるのか分かりませんが、存在感や空気感も大切にしながら、今まででのこみちでは描けなかった描写力を目指しています。
東京03のコントシーンから、印象的なシーンや描き手から興味のある場面などを見つけて、ボチボチと描いています。
今回は「ドキュメンタリー番組」というコントのワンシーンで、飯塚さんを描いてみたもの。
いわゆるトレースで下絵を描いていないので、右のように色をある程度載せてから、段々と修正して描き進めます。
まだ飯塚さんっぽい感じにはなっていないのですが、ここから違いを見直して描いて行くことが楽しいので、どうしても完成するまでに時間も掛かります。
完成したら、またyoutube にもアップしたいと思っています。
東京03の人気コント『ドキュメンタリー番組』と言えば、「器の色」が名言ですが、そのシーンに絡むワンシーンより、今回は豊本さんの表情にピックアップして描いてみました。
まだ、顔の雰囲気ができたところで、これから割烹着を描いたり、もう少し全体的に精度を上げられたらと思っています。
完成したらyoutube にアップすると思うので、よかったらまたお立ち寄りください。
どうにかここまで描きました。
ここからどれだけ描き込めるのかが課題です。
表情の8割。全体的に3割。
まだ背景とスーツなどが手つかずのまま。
鞄も柄を描くのが大変なので、かなり省略して雰囲気だけにしました。
それでも、まだまだ時間が掛かりそうです。
明日くらいにyoutube にアップできたらと思っていますが、どうなるでしょうか。
現時点での進行具合はこんな感じ。
まだ顔を中心に色が乗っただけ。
ここから注意して描いて行くのですが、とにかく描くのが遅いので、行ったり来たりしながら楽しんでいます。
まだまだ印象がガラッと変化すると思いますが、下絵から着色したという所です。
今回のワンシーンは状況を知って困惑した角田さんを描きました。
『許可』は、センスのいい飯塚さんの持ち物に憧れる角田さんが、やっとの思いで「許可」を得て、念願だったカバンを買えたという話。
ところが、豊本さんも同じカバンを持っていて、「無許可」だと角田さんは詰め寄ります。
しかし、豊本さんは全く動じない様子で、逆に角田さんの方が戸惑ってしまうという話です。
「何で?」
そんな雰囲気を描きたくて、このワンシーンを描写してみました。
まず、角田さんの表情をどこまでしっかりと表現できるのかにこだわりました。
描いている40%くらいの時間は、「顔」です。
そして、羽織っているジャケットやシャツのシワ。
少しお腹が膨らんでいるのか、その辺りも影のつき方で描写しています。
シャツに関しては、もう少し時間を掛けるとさらに品質が上がると思いましたが、今回はこの辺までで落ち着きました。
東京03の人気コント『許可』。
センスのいい飯塚さんの持ち物は、同僚の角田さんも注目している。
そしてやっと「許可」をもらい買った同じサイズの同じ色のカバン。
しばらくして現れた豊本さん。
彼が提げているのは…。
ちょうどそんな展開で角田さんが見せるワンシーンです。
まだ、ほとんど描けていない顔ですがまだまだ手直し中です。
今回のシーンは、後から現れた角田さんに気づき、まだ心に整理がつかないまま軽く微笑む飯塚さんを描いています。
まだ、軽く顔全体に色が乗ったところですが、これから少しずつ描き込んでいこうと思います。
今回の「許可」は、東京03の公式チャンネルに新たに公開されたコントです。
その雰囲気をどこまで再現できるのか、今の画力で挑戦してみます。
コント終盤、角田さんが被っていた帽子を被り、どこか笑いを誘う表情の豊本さんを描いてみました。
掲載したものは、まだまだ製作の途中で、全体的に色が乗ったというところ。
どこまで時間を掛けて再現するのかできるのかが問題ですが、これからもう少し描き込んでいきたいと思っています。
相変わらず、描くのが遅く、ボチボチの製作ですが、またyoutube にも掲載したいと思っています。
近いうちにアップしたいです。
今回描いた一枚は、こんな感じに仕上がりました。
意識して取り組んだのは、肌の厚みです。
例えば唇を線として描くのではなく、唇の分厚さをしっかりと描くことで、表現に深みを持たせたいと思いました。
一方で、ジャケットのシワは、基本的な描き方で省略し、もう少し時間を掛けて描くことで2段階は詳細に表現できると思います。
まだまだ描くのが遅いので、全部に力を注ぐことが難しいこともあって、ポイントを絞って少しずつ上達できるように取り組んでみました。
短い時なら15分くらいの隙間時間に、ちょっとずつ描いています。
まだ制作途中ですが、ここからどんどん描き込んでいこうと思っています。
それこそ編み物とか、読書をするような感覚で、絵を描く時は集中している時もあれば、ラジオやテレビ、youtube を見たり聴いたりしながら、同時にすることが多いです。
頭の中を空っぽにして、手だけ動かしている感覚が心地いいです。
ただ、今回のイラストはもう少ししっかりと描きたくて、いつも描く時に使う色数が24だとしたら、その倍や3倍くらいで描きたいなと思います。
今年も自由気ままに描かさせて頂きました。
まだまだ拙いですが、懲りずに覗いてくださったみなさん、本当にありがとうございます。
来年も特に抱負のようなものはありませんが、今年同様に細々と気ままに描いていけたらと思います。
最後の一枚も東京03のワンシーンから選びました。
ではでは、今年も残り少なくなりましたが、大晦日まで楽しみましょう。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
相変わらず、描くのが遅いこみちです。
その原因は、迷いがあるからです。
最近、右のようなイラストをyoutube にアップすると、温かいコメントをもらうことが増えました。
よく描けた時は高評価も増えますし、もう一歩という時は高評価も頭打ちです。
低評価をつけられることもありますが、ある意味でわざわざ関わってくれて、教えてくれたのですから次に活かそうと思います。
少し前、これだけ誰もがスマホを持ち歩き、高画質で鮮明に撮影できる時代になって、絵を描く意味を考えたりしますが、描く楽しさという意味では苦労して描く中で、発見することがあるから楽しいと感じます。
例えば、似顔絵を描く時に、ある一本の線があるとないで全く違うことがあります。
つまりその一本が究極の線で、それ無しには成立しないという大切なものです。
例えば、絵を普段全く描かない人が、トレースして描いたとしても、その線をぜんたに眺めるといい感じで対象物を感じられます。
なぜなら、トレースはすでに撮影されたものを使うので、既に意味を持った物体になっていて、それを無意識でもなぞることで、形を呼び起こせます。
しかし、デッサンになってしまうと、経験が少ない人では急に存在感が消えてしまい、さっきまであった雰囲気が失われます。
例えば、絵が好きで描いていても、誰か別の人が描いた作品を見て、ハッと気づくことがあります。
同じように描いているのに、自身が描いた時には感じなかったのに、誰かの作品では感じることができる不思議が感覚がそれこそ究極の線だと思います。
ある意味で宿るようなもので、すぐにその洗礼を受けられる人もいれば、長く描き続けることで身につける人もいます。
一方で、好きで描いているのに、一向に上手くならないという人もいて、究極の線に出会えることがとて有り難く、でも毎回遭遇できるとは限りません。
癖が強くと言ってしまえばそうなのですが、究極の線に出会えることが楽しくて、またそんな出会いの良さを多くの人に感じてもらうために、どんな方法があるのかとも考えたりします。
何をどう描くことが、描くことの楽しさなのかといろいろ考えてみるのですが、当たり前に思い過ぎることも多くなって、実は大切にするべきだというポイントを見失ってしまっているのかもしれません。