転倒したシーンを描いてみる
見えたままを描くようになって、例えばポイントとなる範囲が確認できないような構図でも挑戦できるようになりました。
描いた後でトリミングするような時はいいのですが、描きたいモチーフの全体像が確認できない時の制作は苦労していました。
今回も足が切れていて、しかも横向きになっているので、あまり描いていない構図です。
描けるなかぁと心配でしたが、どうにかここまで完成させることができました。
見えたままを描くようになって、例えばポイントとなる範囲が確認できないような構図でも挑戦できるようになりました。
描いた後でトリミングするような時はいいのですが、描きたいモチーフの全体像が確認できない時の制作は苦労していました。
今回も足が切れていて、しかも横向きになっているので、あまり描いていない構図です。
描けるなかぁと心配でしたが、どうにかここまで完成させることができました。
誰が言ったのか覚えていませんが、例えば「りんごがある」として、そう言った人と言われた人がイメージする「りんご」は完全に一致することはありません。
「絵に描いたりんご」を指差し、「このりんご」と言えば、目の前に見える物体を共通で認識できます。
とは言え、最近思うのは、「視覚化の限界」です。
もう少し具体的に言えば、「見えている瞬間」が全てとは限らないことに着目してしまうからです。
先の「りんご」で言えば、確かにそこに描かれた「りんご」を見ている訳ですが、例えば補足情報として「青森県産の」とか「昨日買って来た」のような背景を知っていると無意識のうちに先入観が生まれてしまいます。
さらに言えば、デジタルアートなのか、油絵なのか、画材は何を使って誰がいつどこで描いたのか。
「絵は絵」という認識なら、本来補足情報は役立つません。
しかし、「より深く理解する」という時に、我々はそこには描かれていないことも関連づけたりもします。
そんな行為を否定している訳ではなく、でも肯定している訳でもありません。
ただ「視覚化」と言っても、そこにはコントロールすることができない「限界」があると思います。
表題の「ピカソの偉さ」も、まず「偉い」とは何か定義しなければyes ともnoとも言えないでしょう。
そして、厄介なのはその定義で、例えば日常生活で特に美術に興味がない人にとっては、ピカソさえも名前くらい知っている有名人でしょうし、美術が好きな人でも憧れや尊敬ではなく「偉い」という言葉がしっくり来るのかは疑問です。
「偉い」とは、人ができないようなことをできてしまう人なのか…。
例えば、100mを誰よりも速く走った人は、偉い人なのでしょうか。
仮に偉い人だとして、次のレースでその人に勝利した人が現れたら、もっと偉いことになるのでしょうか。
こみち自身も絵を描くことは大好きですが、それ以外は特に続けて来たこともなく、唯一続いていることに過ぎません。
今もしも「なぜ描くのか?」と自問自答しても「それしかできないから」としか答えられません。
こみちにとって、ピカソがどんなに素晴らしい人なのか、本当のことはよくわかりません。
ただ、現時点でピカソの描いた作品を見て、「どんな絵を描いたのか?」よりも「なぜ描いたのか?」という部分に興味があります。
それはつまり、例えば今こみちが「りんご」をモチーフとして描こうと思えるのかというと、描きたいとは思いません。
理由は単純で、そこに描こうと思う動機が浮かばないからです。
それはつまり、風景画を描く時にも悩むのですが、今の画力を試したくてちょっと手強い構図に挑戦する時に感じるワクワク感も、回数を重ねて行くと描く前から完成度が分かってしまい描いても楽しくないのです。
ある意味で「りんご」を描くのはそれに近いと思います。
ピカソがあるタイミングで肖像画を描いた。
それが写真で撮影したようにリアルでも、単純に下手だったとしても、こみちには驚くことではなくて、絵を見て思うのは「なぜ、この絵だったのか?」ということ。
多分、写真と見間違える技術で描ける人は、時間さえあればも何枚でもそのレベルで描けるでしょう。
でも描く側からすると、描く前から予測ができてしまう構図は、「絵を描く」という作業ではなく、「単純な流れ作業」になってしまいます。
ただ、少しマニアックなことを言えば、撮影するカメラによっても、使うフィルムやレンズによっても写真の写り方や色味は微妙に変化し、「写真っぽい」という曖昧さでは語ることができません。
その僅かな差を絵で描き分けることに意味があるのかは別の話かもしれませんが、描き手からすると今の画力ではちょっと厳しいくらいの加減が描く楽しさになっています。
つまり、ピカソがそのタイミングで、どうしてその「絵」を描いたのかが気になるのは、冒頭で触れた視覚化の限界さえも超越したのか、超えられなかったとしたらどこまでそれに迫ったのかには興味があります。
映像による表現方法やマンガのような手法から生み出せる世界観とはまた異なる次元にいるので、「絵などなくても別の何かがあればいい」ということではないと思います。
人は無意識のうちに、感触を会得します。
いつも触れている物なら目をつぶっていてもその形状や質感が分かることに似ています。
つまり、ある絵を見て鳥肌が立つような感動を覚えるのは、潜在意識の中に感覚として呼び起こされるものがあったからでしょう。
なので、何も潜在意識にない人には、どんな絵を見ても特に感動することも起こらないと思うのです。
それは小説を読み返した時に、以前とは別の視点からストーリーを追ってしまうのに似ていて、人生経験やその時の感情によって、見え方が変わったりすることに似ています。
どれだけ多く人の心を響かせられたのか。その人数の多さが絵としての価値なのかも検討しなければいけません。
つまり、誰もが経験することに近い感覚ほど、感動する可能性が高くなるからです。
しかし、ある特殊な経験によってしか感じられない感覚も、蔑ろにするべきではありません。
多くの人にはよくわからない絵だったとしても、あるタイミングでその描かれた意味や思いに感情が揺さぶられるかもしれないからです。
画像として知っている絵も、実際に見るとサイズ感や画材の粗さなど、描いた人の感覚が全く異なって伝わったりします。
絵を図形として見ている時と、立体視した時では見え方感じ方が異なります。
ピカソが凄いかどうかは分かりませんが、彼が生きた時代や文化、生活様式を知らないと作品を描こうとした動機も分かりません。
ただ、全く同じモチーフを一見すると同じに見えても、横に並べて比べてみると違って感じることはあります。
目で見えた視覚化された情報以外に、我々も無意識に何かを感じとっているからでしょう。
それは歌の上手さでもそれは起こります。
上手い人の歌を聴き、素直に上手いと思う。
でも別の人が歌ったら、なぜか感情が揺さぶられて涙してしまった。
この違いってどこにあるのでしょうか。
アートの不思議さは、言葉にしづらいから難しいです。
それに、今はそう思っていても明日には別の気持ちになっているかもしれません。
主役が偉いのか、脇役が偉いのか。
その答えはいろいろあっていいはずです。
キャンプ場にスーツ姿で現れた豊本さん。
社長の角田さんがいなくなって、飯塚さんにお願いをする。
しかも、その迫り方がちょっと怖い。
そんな場面で見せた豊本さんのワンシーンを描いてみました。
下書きから全体的に着色を済ませた段階ですが、ここからさらに描き込みたいと思っています。
青く見えるのはテントで、この後、そこに豊本さんは身を隠します。
鬼気迫り雰囲気が伝わるように頑張ります。
東京03のコントが好きで、よくお気に入りのシーンを描かせてもらっています。
今回は「因を探して」というコントのワンシーンです。
豊本さんの表情が印象的で、その顔を見て笑う飯塚さんがまだ気づいていない角田さんにも見せるという場面。
東京03のお三方は演技力もあって、コントというかドラマを観ているような感覚になるのですが、一瞬、豊本さんが笑いそうになって、それがまた上手いからこそ観ている側は可笑しくて、個人的にもお気に入りなんです。
デッサンとしては、形が狂っている部分もたくさんありますが、下書きからフリーハンドで描くのも、完コピしたいわけではなくて、雰囲気を描きたいと思っているからです。
絶対に表現したいのは、豊本さんの表情と飯塚さんの表情。
さらにウインドブレーカーとスーツの質感の違い。
光の当たり具合ももう少し上手になれば、さらに臨場感が伝えられたかもしれません。
新たに公開された東京03の人気コント『因をさがして』より、このシーン。
まだ制作途中で、ちょうど飯塚さんが羽織っているウインドブレーカーの陰影を描き始めたところです。
衣類のシワは、グラデーションが多くて描くのが大変ですが、質感や雰囲気をしっかりと表現するためには避けられない部分。
苦戦しながらも、少しずつ描いていこうと思います。
完成したら、youtube チャンネルにアップする予定です。
誤魔化してしまうこともできますが、逃げないで向き合うことで画力を上げたいと思っています。
今回選んだシーンは、顔のドアップ。
画力を試すには絶好の一枚ですが、他に描くものが無いだけに逃げ場もない。
まだ制作途中ですが、描き進めて行くとまだ到達できていないレベルが求められる。
だから、とりあえずここまで描いたものの、この後にどこまで精度を上げられるか、楽しみもありながらプレッシャーでもある。
構図でコントシーンを再現するのではなく、演者の表情や仕草を描くことで伝えられるようになりたいと思っています。
「誰を描いているのか?」ではなく、「何をどう感じている場面なのか?」を伝えられるような画力を模索しています。
まだ、全体の色づけも終わっていませんが、少しずつ手直ししながら表現方法を見つけているところです。
どこまで狙い通りに仕上がるのか分かりませんが、存在感や空気感も大切にしながら、今まででのこみちでは描けなかった描写力を目指しています。
東京03のコントシーンから、印象的なシーンや描き手から興味のある場面などを見つけて、ボチボチと描いています。
今回は「ドキュメンタリー番組」というコントのワンシーンで、飯塚さんを描いてみたもの。
いわゆるトレースで下絵を描いていないので、右のように色をある程度載せてから、段々と修正して描き進めます。
まだ飯塚さんっぽい感じにはなっていないのですが、ここから違いを見直して描いて行くことが楽しいので、どうしても完成するまでに時間も掛かります。
完成したら、またyoutube にもアップしたいと思っています。
東京03の人気コント『ドキュメンタリー番組』と言えば、「器の色」が名言ですが、そのシーンに絡むワンシーンより、今回は豊本さんの表情にピックアップして描いてみました。
まだ、顔の雰囲気ができたところで、これから割烹着を描いたり、もう少し全体的に精度を上げられたらと思っています。
完成したらyoutube にアップすると思うので、よかったらまたお立ち寄りください。
どうにかここまで描きました。
ここからどれだけ描き込めるのかが課題です。
表情の8割。全体的に3割。
まだ背景とスーツなどが手つかずのまま。
鞄も柄を描くのが大変なので、かなり省略して雰囲気だけにしました。
それでも、まだまだ時間が掛かりそうです。
明日くらいにyoutube にアップできたらと思っていますが、どうなるでしょうか。
現時点での進行具合はこんな感じ。
まだ顔を中心に色が乗っただけ。
ここから注意して描いて行くのですが、とにかく描くのが遅いので、行ったり来たりしながら楽しんでいます。
まだまだ印象がガラッと変化すると思いますが、下絵から着色したという所です。
今回のワンシーンは状況を知って困惑した角田さんを描きました。
『許可』は、センスのいい飯塚さんの持ち物に憧れる角田さんが、やっとの思いで「許可」を得て、念願だったカバンを買えたという話。
ところが、豊本さんも同じカバンを持っていて、「無許可」だと角田さんは詰め寄ります。
しかし、豊本さんは全く動じない様子で、逆に角田さんの方が戸惑ってしまうという話です。
「何で?」
そんな雰囲気を描きたくて、このワンシーンを描写してみました。
まず、角田さんの表情をどこまでしっかりと表現できるのかにこだわりました。
描いている40%くらいの時間は、「顔」です。
そして、羽織っているジャケットやシャツのシワ。
少しお腹が膨らんでいるのか、その辺りも影のつき方で描写しています。
シャツに関しては、もう少し時間を掛けるとさらに品質が上がると思いましたが、今回はこの辺までで落ち着きました。
東京03の人気コント『許可』。
センスのいい飯塚さんの持ち物は、同僚の角田さんも注目している。
そしてやっと「許可」をもらい買った同じサイズの同じ色のカバン。
しばらくして現れた豊本さん。
彼が提げているのは…。
ちょうどそんな展開で角田さんが見せるワンシーンです。
まだ、ほとんど描けていない顔ですがまだまだ手直し中です。
今回のシーンは、後から現れた角田さんに気づき、まだ心に整理がつかないまま軽く微笑む飯塚さんを描いています。
まだ、軽く顔全体に色が乗ったところですが、これから少しずつ描き込んでいこうと思います。
今回の「許可」は、東京03の公式チャンネルに新たに公開されたコントです。
その雰囲気をどこまで再現できるのか、今の画力で挑戦してみます。
コント終盤、角田さんが被っていた帽子を被り、どこか笑いを誘う表情の豊本さんを描いてみました。
掲載したものは、まだまだ製作の途中で、全体的に色が乗ったというところ。
どこまで時間を掛けて再現するのかできるのかが問題ですが、これからもう少し描き込んでいきたいと思っています。
相変わらず、描くのが遅く、ボチボチの製作ですが、またyoutube にも掲載したいと思っています。
近いうちにアップしたいです。
今回描いた一枚は、こんな感じに仕上がりました。
意識して取り組んだのは、肌の厚みです。
例えば唇を線として描くのではなく、唇の分厚さをしっかりと描くことで、表現に深みを持たせたいと思いました。
一方で、ジャケットのシワは、基本的な描き方で省略し、もう少し時間を掛けて描くことで2段階は詳細に表現できると思います。
まだまだ描くのが遅いので、全部に力を注ぐことが難しいこともあって、ポイントを絞って少しずつ上達できるように取り組んでみました。
短い時なら15分くらいの隙間時間に、ちょっとずつ描いています。
まだ制作途中ですが、ここからどんどん描き込んでいこうと思っています。
それこそ編み物とか、読書をするような感覚で、絵を描く時は集中している時もあれば、ラジオやテレビ、youtube を見たり聴いたりしながら、同時にすることが多いです。
頭の中を空っぽにして、手だけ動かしている感覚が心地いいです。
ただ、今回のイラストはもう少ししっかりと描きたくて、いつも描く時に使う色数が24だとしたら、その倍や3倍くらいで描きたいなと思います。
今年も自由気ままに描かさせて頂きました。
まだまだ拙いですが、懲りずに覗いてくださったみなさん、本当にありがとうございます。
来年も特に抱負のようなものはありませんが、今年同様に細々と気ままに描いていけたらと思います。
最後の一枚も東京03のワンシーンから選びました。
ではでは、今年も残り少なくなりましたが、大晦日まで楽しみましょう。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
相変わらず、描くのが遅いこみちです。
その原因は、迷いがあるからです。
最近、右のようなイラストをyoutube にアップすると、温かいコメントをもらうことが増えました。
よく描けた時は高評価も増えますし、もう一歩という時は高評価も頭打ちです。
低評価をつけられることもありますが、ある意味でわざわざ関わってくれて、教えてくれたのですから次に活かそうと思います。
少し前、これだけ誰もがスマホを持ち歩き、高画質で鮮明に撮影できる時代になって、絵を描く意味を考えたりしますが、描く楽しさという意味では苦労して描く中で、発見することがあるから楽しいと感じます。
例えば、似顔絵を描く時に、ある一本の線があるとないで全く違うことがあります。
つまりその一本が究極の線で、それ無しには成立しないという大切なものです。
例えば、絵を普段全く描かない人が、トレースして描いたとしても、その線をぜんたに眺めるといい感じで対象物を感じられます。
なぜなら、トレースはすでに撮影されたものを使うので、既に意味を持った物体になっていて、それを無意識でもなぞることで、形を呼び起こせます。
しかし、デッサンになってしまうと、経験が少ない人では急に存在感が消えてしまい、さっきまであった雰囲気が失われます。
例えば、絵が好きで描いていても、誰か別の人が描いた作品を見て、ハッと気づくことがあります。
同じように描いているのに、自身が描いた時には感じなかったのに、誰かの作品では感じることができる不思議が感覚がそれこそ究極の線だと思います。
ある意味で宿るようなもので、すぐにその洗礼を受けられる人もいれば、長く描き続けることで身につける人もいます。
一方で、好きで描いているのに、一向に上手くならないという人もいて、究極の線に出会えることがとて有り難く、でも毎回遭遇できるとは限りません。
癖が強くと言ってしまえばそうなのですが、究極の線に出会えることが楽しくて、またそんな出会いの良さを多くの人に感じてもらうために、どんな方法があるのかとも考えたりします。
何をどう描くことが、描くことの楽しさなのかといろいろ考えてみるのですが、当たり前に思い過ぎることも多くなって、実は大切にするべきだというポイントを見失ってしまっているのかもしれません。
単体の人物を描く時に比べ、複数人になるとそれぞれのボリューム感を整えなければいけません。
加えて、構図的に重なる場面では、特に距離感をしっかりと描かなければ不思議になってしまいます。
これまでにも東京03の似顔絵でも複数人を描くことはありましたが、重なる構図を選ぶのは初めてではないかと思います。
場面としては後ろに立つ角田さんが、耳元で「やってんねぇ」と囁き、その言葉に耳を傾けている飯塚さんの表情を描きこともテーマでした。
ヒソヒソと周囲に聞こえないように囁く雰囲気がどこまで描き切れたのか。
シャツのシワを含めて、まだまだ苦手な課題はたくさんありますが、絵を描くことはとても楽しくてやりがいがあります。
絵を描くことが好きなこみちですが、描いている途中で満足してしまいます。
しかし、後で見返した時に思うのは「もう少しやり切っておけば良かった」ということ。
この辺りは描くのが遅いことも理由ですが、なかなか直せない癖です。
今回は先にこのブログにて制作途中をアップしてみましたが、ここからどれだけ自身が納得できるまで取り組めるのかが課題です。
今日中は難しいかもしれませんが、明日くらいまでには「ゴール」に到着したいです。
正しい線を引けば、結果的に描きたい物が描けるようになる。
こみちは絵以外にもランニングが趣味で、2つは似たような感覚がある。
「走る」ようになったのは、約1年前から。
運動不足解消というよりは、気分転換が大きな理由だった。
あの頃、いろんな面で上手く行かなくて、気持ち的に行き詰まっていた。
笑えなかったし、楽しめなかった。
「流れ」を作ることができればいいけれど、何も感じなければいいけれど、そんな風にもならないから、前にも後ろにも行くことができなかった。
上手いとか、下手とかではなく、単純にこみちにとって「絵を描くこと」が振り返った時に残ったもので、絵を描くことだけは嫌いになりたくなった。
右上の絵は、東京03のコントシーンを描いたもの。
以前からよくモチーフとして描いているけれど、最近は少し画力が試される構図に挑戦している。
顔のアップを基本としたシンプルな構図。
実際に描いてみると、表情や仕草がしっかりと描く必要がある。
こみちは、正面からの顔を描くことが好きではなくて、理由はシンプルに「その構図の良さを活かしきれない」から。
奥行き感のない絵は、とても狭い世界に見えてしまう。
まだ、こみちは自分の描いた絵を作品とは思っていなくて、「図」に近い。
以前にも紹介したように思うけれど、文字で伝える情報とは異なるアプローチで「絵」を使っている。
だから、スケール感や重量感、色味や空気感のような「雰囲気」を描くことはとても大切だと思っていて、言えばそこ場面を自身のフィルターに通して描くことも心掛けている。
こみちがこれまでに何枚も描く中で、癖というかタッチというか、描いたものの中にこみちらしいテイストが生まれて、「こみちっぽい絵」になることで伝えられるものがあると思う。
そのためにも、よりシンプルな構図をしっかりと描くことが大切で、ここ最近はそのことを意識して絵を描くようにしている。
ランニングを全くされない人には、具体的なイメージが浮かばないかもしれないが、最初は誰だって300mだって走ることができない。
でも、「走る」という動きをいくつかの視点や動きに分解すると、それぞれの意味やポイントが見えてくる。
つまり、できない理由や原因があるからこその結果で、逆を言えばそれらが全くないのであれば、結果的に現状は今に留まっていなくて次のステージへと向かっているだろう。
上手くいかないことって、やっぱり理由があって、その原因を解消しないとずっと変わらないままだ。
絵は、自分でコントロールできるし、苦手を克服すれば段々と思うようになってくる。
絵を描くことしかできない理由はそこにあって、もしも描くことを取り上げられたらこみちには何も残らないように思えてしまう。
今回選んだワンシーンは、振り返った豊本さんの少し驚いた表情。
目鼻口のバランスがなかなか掴めずに、苦労しました。
似顔絵というよりも、今回はしっかりと表情を描いて行こうと思って挑戦した回になります。
一瞬を表情なので、時に普段の見慣れた顔立ちと異なることもあって、知っている「豊本さん」との違いがあまりに大きいと、描いていても迷ったり、自己修正が入ってしまったりします。
今回はボーダー柄の上着はササっと軽く印影を付けただけで描きました。
まだまだ特長を掴みきれていませんが、そんな焦ったさも含めて、描くのってやはり楽しい作業です。
「見たままの情景を描きたい!」という気持ちは、絵を描くことが好きな人であれば、誰もが持っているのではないだろうか。
東京03人気コント『部長のいい話』は、部長役の角田さんがかつての部下である飯塚さんや豊本さんに「いい話」をするネタだ。
「自分一人では何もできない。だから、他人を受け入れる心を持つこと」
そんな感じの「いい話」を今は部下を持つ立場になった彼らに伝える。
でも、お酒も飲んでいたらトイレにも行きたくなるもの。
いい話の直後に彼らは連れ立って席を立ち、角田さんは一人ぼっちになってしまう。
「いい話をした自負がある」
感想や余韻が欲しいタイミングで一人にされると、余計にもの寂しさが強くなってしまう。
描いたのは、そんな場面を迎えた時の角田さんだ。
背中の曲がり具合。
不満気な口元。
身長が多分、170センチから175センチくらいの角田さんだから、そのスケール感も極端過ぎてはいけない。
なぜなら、プロポーションを整え過ぎると、急にリアリティが失われ、例えば今回の描きたい「孤独感」や「もの寂しさ」が薄れてしまう。
「場の雰囲気」をどこまで描けるのかが最近のテーマだから、できる限り感じた印象そのままを再現したかった。
強いて言えば、もう少し背景との距離感やそこにある空気感まで表現できれば良かったけれど、スーツのシワや体の厚みや存在感は、今の画力なら上手く描けた方ではないかと思う。
胸から上の、しかも描くのは1人だけ。
人物画としては馴染みのある構図です。
でも、定番の構図故に、逃げや言い訳ができないとも言え、プレッシャーが掛かります。
今回は角田さんの表情に挑戦しました。
結果から話せば、思うような表情を描くことができませんでした。
ここから、いろいろと弄って、表情の根源となるポイントを見つけるのですが、結果見つけることができなくて、寄せきれませんでした。
「誰を描く」ではなく、「どんな雰囲気を描く」のかにこだわっているので、全く印象が違って見えるので、今回の一枚は反省の多いものになりました。
こみちの場合、描きたいものが全て描ける訳ではなくて、最初はリンゴとかコップのような「形」を追うことに終始して来ました。
そこから例えば人物とかに対象が変わるのですが、今でも女性は苦手です。
理由はいくつかありますが、「形」としては難しくないのですが、「人間っぽさ」という意味で難易度がもの凄く高いからです。
人形ではなく、生身の人間という表現が不足していて、例えば、20歳の女性と40歳、60歳と描き分けられるのかというとその画力がありません。
誇張された喜怒哀楽が描けても、含みを持たせた微妙な表情となると、やはりまだまだ描けなくて失敗続きです。
今回、東京03の飯塚さんのこの表情に挑戦したのですが、コントのタイトルにもあるように「義兄弟」である角田さんが自分よりも年下だと気づいて、「俺の方が年上かよ」と態度が豹変したシーンです。
怒るという表情でもなく、悲しむというものでもなくて、年齢というそれぞれの中にある敬いのような感覚が、態度や言葉遣いまでも変化させる東京03らしい感性が現れた場面で、じゃあその表情を「写真的」ではなく、感情的にどこまで描くことができるのかと興味を感じて来ました。
多分、半年前の画力ではここまで細かな表現はできなくて、コツコツと描く中での気づきが蓄積されて、できなかった表現方法に到達できるのかと思います。
なぜ描くのか?
特に特徴のない風景でも、BGM次第で印象が変わります。
明るい音楽なら、何かワクワクした気持ちを連想させますし、暗い音楽なら何か人の内面に触れるようなもの寂しさを感じるでしょう。
こみちにとって描くとは、目で見えている「景色」ではなく、「BGM」の方が対象で、つまり東京03の飯塚さんを描いているというよりも、その瞬間にそこにいる飯塚さんの「雰囲気」や「存在感」を描きたいと思っています。
真正面の無表情な人物画を写真のように描くことはあまり興味がなくて、でも一周回って、「感情を失った時の表情」という意味ではまた描く目的が生まれます。
ある意味、描ける範囲が広がることで表現力も増えると思います。
まだまだ描けない領域がたくさんあって、描いているものでも、本当に描きたい領域まで踏み込めていなかったりもして、「描くこと」の難しさと楽しさをいつも感じています。
こみちは才能がある訳ではなくて、好きでずっと描き来ましたが、結局ののところ、描くことしか出来ない人間かもしれません。
写真を撮ったり、ギターを弾いたり、ランニングもするのですが、「絵を描く」ということほど向き合ってはいません。
きっとそれぞれの分野にも、絵を描くことと同じくらいいろんな要素があって、向き合い方があるはずです。
でもそこまではまだまだ到達していませんし、絵でいう目の前のりんごを描いて楽しんでいる感覚です。
もっと上手くなりたいなぁと思っていますが、先に進むほど時間の割に進歩が感じられなくて、数ヶ月とか半年くらい経て変化を感じるようなところでしょうか。
今回の一枚も、まだまだ不完全ですが、それでも半年前ならここまでは表現できなかったと思います。
だから描くのは面白いですし、「コレ、描けるかなぁ?」という興味は、形としてだけではなく、存在感や空気感まで含まれているように思うのです。
今回、描いたシーンはコントラストが強い場面。
選んだポイントは、角田さんと飯塚さんの二人がいて、飯塚さんが手を伸ばして角田さんに触れていたから。
似顔絵を描く時に、一人だけの場合は必要ないけれど、複数人になるとサイズ感や色味など、いろいろと関係性が気になってくる。
その辺りの描写力は、とても重要だと思っていて、例えば街並みを描いた時も建物や道路だけではなく、そこに居合わせる人など「関係性」があってこそ。
今回のシーンでは、不満顔の角田さんに手を伸ばして制している飯塚さんという関係があって、理由が原因は別としても、左腕を押さえられて立ち上がることが阻まれた雰囲気を描きたかった。
さらに細かなことを言えば、柔らかい生地であろうポロシャツを着た角田さんに対し、綿のTシャツにシャツを羽織った飯塚さんがいることも、光の当たり方で表現できていたら嬉しい。
今回の場合はブラック系の単色で、でも二人の後ろにある奥行き感が感じ取ってもらえたら、さらに嬉しく思う。
写真(画像)の完全コピーも、描画力を向上させる大切な練習ではあるけれど、機械的なコピーにならないように、描いた側の癖やタッチがいい感じに残されていて欲しい。
多分、今回のイラストは、トータルで10時間くらい掛かっていると思うけれど、これをさらにあと50時間使うと画質はかなり向上できると思う。
でも描くという意味では、「高画質」であることよりも「雰囲気をどう伝えられるのか?」にこだわりたい。
前回のイラストでは、角田さんと飯塚さんが抱き合っているシーンで、人が「奥行き」として存在し、それが二人になって抱き合った時にも、人としての厚みを損なわず、存在感を残して描くことを目指したかった。
東京03の「返信メール」は、想いを寄せる相手からなかなか返信メールが届かない飯塚さんが落ち込んでいる場面から始まる。
そこに豊本さんが突っ込み、さらに角田さんが現れて落ち込む飯塚さんに絡み始める。
勢い余って、角田さんが飯塚さんを抱き寄せた。
そのタイミングで、飯塚さんが放った「強めに抱く〜」というセリフが特に好きで、今回はそのシーンを描いてみた。
二人とも白い衣装で、しかもシワが出来やすい。
描く上では、画力が試されるモチーフなので、どこまで描けるか個人的にも試してみたかった。
「絵が上手い」と言われるためには、卓越された画力を目指すことだろう。
でも絵描きと呼ばれる人の大半は、「上手い」ということを重視していないのではないだろうか。
こみちの場合、「コレ、描けるかなぁ?」という気持ちが描くモチベーションになっている。
〇〇さんに似せた絵。喜怒哀楽が伝わる絵。
本音を言えば、もうその辺りには興味が薄い。
例えば、テーブルの上にりんごが1つ置いてあって、それを描くことになったとしよう。
「りんご」を描くとか、写真に見えるほどリアルに描くとか、確かに描こうというモチベーションにはなり得るけれど、描く前から完成度ってある程度見えていたりもする。
でも、描こうとしたりんごに、何か特徴的なキズがついていて、そのキズを見たら別の情景を連想させるような事情があったなら、絵描きはその背景を「描けるだろうか?」と張り切るだろう。
料理にしても、店で食べる味と家で食べる味に差があるのは、「味」には環境や雰囲気のようなものが強く影響するだと思うし、その描写に対して社会経験が伴っていない鑑賞者だと何を意図しているのか気づかないことも多い。
その意味では、りんごを「りんご」として描いたり、「写真っぽく」描いたりことは、見る側に予備知識がなくても鑑賞できるような絵だったりする。
一方で、絵描きが描きたい絵とは、段々とそんな類いから逸れて、見た瞬間に過去の経験や感情と結びつき、「もしかして?」と心を揺さぶることに目的があるのだろう。
つまり、描かれた「りんご」を見た時に、幸せそうな情景が浮かんだり、何か物寂しさが感じられたり、そんな「りんご」を通じて感情表現できたら、絵は存在価値を持つのだろう。
学生時代は喜怒哀楽の全てを満遍なく描いてみるのも大切だけど、社会人になって描くのであれば、自分にしか伝えられないような「気持ち」を表現したい。
人物画、風景画というジャンルに偏りがあったとしても、絵を見ただけで誰が描いたのか分かってしまうほどの感性を絵に盛り込めることが重要だからだ。
いつだったか、漫才のネタは同じなのに、漫才師が変わるとウケ方が違ってくるという映像を見たことがある。
「誰が何を喋るのか?」以上に、漫才師の仕草や間が笑いに大きな影響を与えているという証拠だ。
「あの人、絵が上手いよね!」
そう言わせてしまう原因は、まだまだ絵に中身が伴っていないからとも言える。
「上手い」と褒められることは嬉しいことだけど、その情景や空気感までも描き、見た瞬間に「この気持ちって何だろう?」と言いようのない感情の揺さぶりまでできるようになりたい。
今回はこのシーンを選びました。
人物画を描く時に気をつけているポイントがあって、いわゆる「似顔絵」的なものではなくて、その人の雰囲気を目指しています。
具体的には背丈や重みから来るその人の存在感をどこまで描けるのかを意識しています。
飯塚さんと豊本さんの場合、多分身長的には豊本さんの方が高いはずで、また意外と肩回しも大きくて、でもだからこそ二人が並んだ時には少し猫背気味に立つ癖とかも描きたいと思っていました。
また、絵を描く人にとっては、衣類のシワをどう描くのかは気になる所ですが、雰囲気でパターン的なシワで誤魔化すこともできますが、イラスト的な仕上げではなく、写実的な仕上がりにしました。
腰に巻いたツナギの上着部分のボリューム感も今回の課題になるので、ベース色の青色を基本に、数段階色を使って描きました。
背景のロッカーも加え、立ち位置との距離感も明確になって、画面全体に統一感が出て来たら嬉しいです。
描くことがこみちにできる唯一のことでもあるので、少しずつでも成長できていたら良いのですが…。
みなさんは絵を描いているでしょうか。
右の一枚。
個人的には、「描けるかなぁ?」という気持ちになったモチーフです。
ポイントとしては、ロウソクに灯った炎。
「嗚呼、火がついているなぁ」と無意識に感じ取れるくらいに描けたことです。
そして、もう一つのポイントが、その炎の明かりで照らし出された手や袖の反射具合を表現できること。
最後がグラスを忠実に描くことですが、これに関しては今回特に課題にはしませんでした。
鮮明な元画像を再現するのとは異なり、ある程度の粗さがある場合には、描き手が不鮮明な部分を補いながら描くことで、経験値を活かそう思う部分と、見えたままをどれだけ無で描けるのかという矛盾を抱えます。
今回もトレースやグリッドによるガイドを使っていないフリーハンドなので、元画像と全く同じに描くことはできません。
その代わりに、場の雰囲気や空気感を優先的に伝えることが期待でき、今回の描画でその何割かが再現できていたら嬉しいと思います。
冒頭に挙げたいくつかポイントの他に、両腕を前に伸ばしたことで、胴体との空間が作られています。
それはロウソクの炎の明るさによって視覚的に伝わるものですが、反省点としては腕部分のハイトーンをもう少し抑えることで、全体の距離に統一感が生まれたと思います。
手に関しても、階調としてはもう少し段階を分けて描くこともできたのですが、制作時間にも限りがあったので、時間との兼ね合いで省略したことが全体的の完成度を下げてしまったように感じます。
単純に人物画を似顔絵として描くのではなく、表情や仕草からその場の雰囲気や内面まで描けたらと思っていますが、今回に関しては顔が含まれてはいないので、気持ちというよりももっと美術的な要素として描くことを楽しみました。
暗闇を描くとか、照らされた部分と影の部分を描き分けるような表現は、必ず必要になるものなので、現時点でどれくらいの描写ができるのか確認できる課題でもありました。
修正点や課題もありますが、全体的には満足できる部分も多く、描いてよかったと思います。
どうでしょうか。
今回は特に描きたいと思ったシーンを選んでみました。
ただ、画力が露呈するので、ちょっと自信はありませんが…。
豊本さんが演じるモトコさんに掛かってきた電話が気になって、後ろから忍び寄る角田さんを描きました。
まだまだ細かな部分は描ききれていませんが、雰囲気が伝わっていたら嬉しいです。
ふつう、コントなどのタイトルは、その内容を象徴するようなものから命名させます。
つまり東京03の「誰?」というタイトルのコントでは、誰か誰かに正体を聞きたくなる場面があって、そこに何らかのドラマが潜んでいることになります。
実際、冒頭シーンでは角田さんと豊本さんが二人並んでソファーに腰掛け、豊本さんが演じるモトコちゃんの失恋が根底にあって、不安な気持ちを癒そうとして角田さんが話掛けていたはずです。
今回描いたワンシーンは、角田さんが片手を高く上げて遠くを指さして、「誰〜!」と叫んでいます。
ある意味で、このコントのタイトルが命名された代表的なシーンです。
それ故に笑いがあって、コントとしても大きな盛り上がりになる部分です。
東京03の作るコントは、タイトルから連想されるストーリーとは別角度の「裏設定」があたりします。
その意味では、この「誰?」についても同様で、最後の「オチ」は意外なひと言で終わります。
さらに、この「誰?」では冒頭から繰り返しの「セリフ」が登場し、無意識のうちに視聴者の頭に大きなフリとして認識することでしょう。
話が進むにつれて、その「セリフ」を意識して、ジワジワと笑いを生み出します。
今回、ピックアップしたワンシーンは、コントの冒頭シーンですが、東京03が人気である所以は、仕草の一つひとつがしっかりと演出されていることでしょう。
見ていただいている「絵」ですが、角田さんと豊本さんの役柄はどんな風に見えるでしょうか。
男女だから恋人同士?
でも角田さんの姿勢は少し手すりに寄りかかるようで、親身な間柄には思えません。
しかも、女性役の豊本さんも両手を組んでいて、決してリラックスしているだけではなく、どこか緊張しているようにも見えないでしょうか。
また、膝頭の向きと手の位置に着目しても、角田さんがどこか落ち着かない様子に見えますし、豊本さんは膝頭を角田さんに向けてもいません。
もしもカップルのような関係なら、きっと二人の距離が離れていたとしても、どこか向き合うような空間になることでしょう。
実際、この『誰?』では、角田さんが以前にフラれた経験のある友だちで、豊本さんの家に来ている設定です。
絵を描きながら、東京03の作るコントはストーリーもそうですが、演技という意味でもとても魅力的です。
だからこそ、その雰囲気を感じ取って描いてみたいと思うのです。
場面としては、もっと注目度の高いシーンがあるのですが、絵を描く者としてはあえてこのシーンを選んでみました。
なぜなら、単純に「男女がベンチに腰掛けている」ということではなく、今まで紹介したような設定があって、それに相応しい表情や仕草で彼らは演じているからです。
目標として、描かれた人物が誰なのか分かるということではなく、ある意味で心理のようなものまで感じ取れる絵を描けたらと思っています。
まだまだその域には到達できていませんが、今後もコツコツと描き続けて行きます。
コント「気遣い」は、何か気を利かせて「してあげる」だけではなく、「何もしない」こともある。
東京03のコント「気遣い」では、サラリーマンの先輩と後輩という立場で、後輩役の豊本さんは何かと積極的に先輩の飯塚さんに気を配る。
一方で、もう一人の後輩、角田さんはこれまで表立っては何もしなかった。
「お前、オレに何もしてくれたことがないよな!?」
という飯塚さんに問い詰められて、角田さんが「なんか〜」と語り出し、いつも積極的な豊本さんの行為をいじり出した。
それを見て、飯塚さんも思わず自身の胸に手を当てて、「ドキ!」とあざとさを示す。
コントではとても重要なワンシーン。
今回はそんなシーンを描いてみました。
精密画ではありませんが、コントの雰囲気が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
相手を思って、気の利いたことをさり気なくできる人を見ると大人だなぁとかんじます。
例えば、学生時代よりも、社会人になって気づくのは、「気遣い」の質。
「喜ぶ顔が見たい!」という素直な動機ならまだしも、「コレをすれば…」とどこかで自身の評価を見越して行動してしまうこともあるはず。
東京03の人気コント『気遣い』は、後輩の角田さんと豊本さんがまだ会社で残業している先輩の飯塚に会いに行くという設定。
すかさず豊本さんは缶コーヒーを買って、飯塚さんに届けます。
もちろんそんな気遣いに飯塚さんも喜び、ふと何もしない角田さんに「何かしてくれ!」とこれまでの鬱憤が一気に吐き出されます。
ところがあるタイミングで、角田さんが「なんか〜」と言い出します。
そして、そつの無い豊本さんを「お前は良いよなぁ」と意味深な発言をして、そんな行為をどこかで気恥ずかしいと語ります。
そして今回描いたワンシーンへと移ります。
「やってる〜!」
見え見えなことを平気でできる人と、それを見て真似できないと引いてしまう人。
「気遣い」というコントのタイトルの意図が明らかになります。
確かにさり気なくできれば良いのですが、どこかスマートじゃと周りからはアイツ「やってる〜」と思われているのかもしれません。
東京03のコントが好きで、繰り返し何度も見ています。
脚本としての完成度もそうですが、お三方の演技力と個性の調和が絶妙で心地よくていいんです。
今回、選んだこのシーンは、先輩役の飯塚さんが以前から気になっていた後輩角田さんへの気持ちを爆発させた場面。
文字で伝えるという方法もありますが、描いて伝えるという方法もあります。
描いて伝えるためには、それぞれが誰で、手足の動きや表情をどこまで表現出来るのかも重要になるでしょう。
一人の人物が立っているのとは違って、複数名になれば大きさも重要ですし、動きや力感、奥行き感など、省略できないことも少なくありません。
だからこそ、どこまで自身の画力で再現し、それを誰かにお伝えできるかにこだわってしまうのです。
昔、今みたいにデジタルアートではなく、筆で描いていた頃、季節感や時刻をとても上手に表現される憧れの画家がいて、その方のフィルターを通して見える作品は独特の雰囲気にあふれていました。
まぁ、カメラでも厳密に言えば使うレンズメーカーや種類によって、それぞれの個性があるのですが、作風とか画風を自分なりに見つけるまでかなり悩んだ時期と重なり、とても勉強になりました。
「こみちっぽい絵」と言われることに憧れましたし、それはある意味で癖とかタッチから作られたものだと思います。
世の中には上手い絵を描ける人はたくさんいると思うのですが、どこまで雰囲気を伝えられるかは奥が深くて、だからこそずっとこだわりながら描いて来たつもりです。
まだまだ、本当に描きたいレベルには遠く及ばないのですが、これからももっと描き続けて、さらに憧れていた領域にたどり着きたいです。
東京03のコント『魔が差して』は、不倫を題材に練られたネタです。
「魔が差して」というフレーズからは、浮気を問い詰められた時によく使うセリフでしょう。
しかし、東京03のコントでは少し違います。
このシーンは、ぬいぐるみを夫役の角田さんから投げ渡されて、妻役の豊美さんが受け取ったところです。
何やら浮かない表情を浮かべた豊美さんですが、どこまでそれがしっかりと描写できたでしょうか。
豊本さん演じる「豊美さんに似ている」ではなく、コントで重要な場面であるこのワンシーンの雰囲気をどこまで再現できたのかがポイントで、こみちとしても内面まで描けることを目指したいです。
正直なところ、羽織っているカーディガンの編み目などの描写が乏しく、もう少し時間を掛けて再現するべきだったと思います。
ただ、豊美さんの顔や髪を描くことで、かなり限界を迎えていたので、全体としての完成度が下がってしまいました。
女性を描く難しさを実感しながらも、試行錯誤を繰り返してみました。
全体に色が乗った段階で、ここからはさらに詳細な描き込みに入ります。
まだまだというか、先が見えないほど修正したいポイントがあって、どこまで追えるかが問われている感じです。
現段階では、肌のトーンを修正している途中で、特に右サイドの陰影に悩んでいます。
髪の毛も3段階くらいのトーンで分けてみましたが、まだまだ修正しなければいけません。
全く先が見えないです。
完成と呼べるところまで描けるのか、こみち自身も分からなくなって来ました。
今回は似顔絵というよりも、新しい描き方を試みた一枚です。
こみちが描く絵は、芸術的な作品ではありません。
こみちが見た、感じた光景を文字ではなく、絵で表現できるための過程です。
なので「誰か?」ということよりも、「何を伝えたいか?」が大切だと思って描きています。
そのためには、性別や年齢、表情、さらに言えば存在している場所や時刻なども盛り込めるようになりたいのです。
なぜなら、そこには意図や流れがあって、その一つずつが意味を持ってそこに存在しているからです。
しかしながら、こみちの画力では全てのシーンを描くことがまだできません。
なので、少しずつですが描ける範囲を広げて、今以上に感じたことを絵で表現できる人になりたいです。
正直、こみちはあまり器用に生きられるタイプではなく、何度も同じ場所をぐるぐると回ってしまいます。
でもだから、こうして絵に出会い、ずっと絵を描くことを続けて来られたとも思います。
ボチボチの公式にはなりますが、この場をお借りして描いた絵を紹介させてください。
いつも応援してくださる方々、本当に感謝しています。どうもありがとう。
昨今、「描くこと」自体はaiでできてしまう。
今回もaiの作画を見て、ポイントを学ぼうという話。
前回のイラストに比べて、もう少し加筆してものが右のイラストです。
光の反射を加えた段階で、一方でまだ途中の影の部分まで描けると急に立体感が伝わると思います。
髪の毛の描写などは、大まかな色づけだけですが、もう少し精密に色づけできると「髪質」が伝わるでしょう。
個人的には、女性の肌質を描くのは難しく、その色味の変化をしっかりと追えたら今後、描ける範囲が増えるはずです。
今はまだイラストと分かるレベルですが、どこかで写真っぽく見える境界線を、今回学べたら嬉しいと思っていて、もう少し加筆を続けたいと思います。
絵を描いている時に「これだ!」と自分でも感心する「線」があって、その線が不思議と絵の中心的なイメージを作ります。
完成したイラストだけを見ると、誰かの背中で、脇にもう1人が立っていることに気づくでしょう。
元々は東京03のコントのワンシーンですが、見えている背中は成人男性な骨格です。
背景のエンジ色のひだに影ができて、そこに二人が向かって何か話しているようにも見えます。
脇に立つ人の背中にも影ができて、二人の距離感も伝わるでしょう。
絵をアップにすると、決して精密画ではなくて、でも先に紹介したようなイメージは伝わると思います。
個人的に、喜怒哀楽のような感情ばかりではなく、もっと曖昧で中途半端な感情がある場面を描くことにこだわっています。
写真や画像などスマホが身近にあるので、わざわざ描くと言う行為に価値が薄れているようです。
しかも最近では、aiによる高度な描写が可能になって、我々が何年も掛けて練習する必要がなくなってしまったとも感じます。
真面目な話をすれば、翻訳家や税務関係者など、他にももっとたくさんの職種で、従来の知識や技術がaiに置き換わろうとしている気がします。
まだ途中段階のイラストですが、ここから精度を上げてリアルな描写に到達するまで、例えば数時間、数日が掛かるとして、そこに時間を注ぎ込むだけの価値があるのかと言うとかなり考え方次第になって来ます。
まず、描くとはどんなことでしょうか。
少なくともこみちにとって描くとは、自己表現の一つで、もっと別の言い方をすると自分が何をどう見てどう感じたのかを伝える手段です。
つまり、その意味では「写真を撮る」結果、撮影できた画像が自身の心情を代弁しているのかということになり、もちろんカメラ撮影も興味深い行為ですが、やはり絵を描くことも価値を失われるものではありません。
なぜなら、自身には「こんな景色に見えた」という表現ができて、そのことが他の誰かに伝わったのなら、描く価値があるからです。
むしろ問題は、右上のイラストをリアルに描くことがしたいのかということ。
元の画像をそのまま模写しても、そこにできたのは自分の気持ちではなく、あくまで撮影者の心情に寄り添ったに過ぎません。
それはaiが描くことも同じで、仮に写真と見分けがつかない品質だったとしても、作り手の想いが伝わっているのかというと疑問が残ります。
描く行為が難しいと思うのは、着色することよりも、そもそも何をどう描こうと思ったのかという部分だからです。
目の前のりんごを描きました。
事実としてはそうですが、それで何を伝えたかったのかという部分が見つかりません。
つまり、デッサンのような練習は技術向上には役立ちますが、どんなに上手くなっても「伝えたいもの」ということにはなりません。
aiの発展に恐れているというよりも、写真と区別がつかないことが最終目標になってしまうことに怖さを感じます。
極論を言えば、人間の生産行為をすべてaiがになって、人間はただ三度の食事をするだけの存在になってしまうことを目指しているのかということ。
自動運転が当たり前になって、スマホで家まで車を呼び出して、乗り込めば目的地まで勝手に届けてくれる。
そうなれば、運転免許も必要ないですし、燃料は太陽エネルギーで賄えて…。
でも、その内、我々がどこかに出掛けることもなくなるでしょう。
名産品や特産品はオートメーションで作られて、自宅まで配送してくれるからです。
何なら各地の景色もバーチャルで体感できるでしょう。
そんな時代に、描くことってどんな意味があるのかと。
今回、aiによるイラスト真似て、自身でどれくらいリアルに描くことができるだろうと練習も兼ねて描き始めたのですが、ここまで描いてふと描く意味に行き詰まりました。
みなさんはどんな想いで、描いたりしているのでしょうか。
東京03の人気コント『魔が差して』は、夫婦の浮気をテーマにしている。
妻の浮気を疑い、予定を変更して急に帰宅する夫。
家での密会中だった妻は、慌てた様子で夫を出迎えた。
描いたシーンはそんな場面。
コントとしては序盤のシーンで、ここから面白い展開になるところ。
テーブルの上の灰皿に、夫の知らないタバコの吸い殻があって、それを問いただした場面。
「誰の吸い殻だ?」
「ああ、私」と咄嗟に嘘をついた妻。
真っ直ぐに夫を見られない妻の手を重ねて立っている様は、何かこれからの展開を予感させる。
みなさんは、何歳の頃から描いていますか?
こみちの場合は園児だった頃からでしょうか。
よく覚えているのは、「ミツバチ」を描いた絵で、親が「これ、こみちが描いたの?」と言って「そうだよ」と答えた時に別の紙にもう一度描かされたことがありました。
三歳とか四歳にしては上手過ぎたのでしょう。
小学生の時も、学校の写生大会で茶色だけで風景画を描いて再度描き直しさせられたり、印影だけで京都の五重の塔の風景画を描いていたりと、思い起こせば「絵」との関わりは親身でした。
学生時代はバイクが趣味で、学校が長期休暇になるとツーリングに出掛けてはスケッチ旅行をしていました。
当時は今よりもずっと画力がなくて、鉛筆画や水彩画ばかり描いていました。
社会人になって、あまりバイク旅ができなくなって、小さなスケッチブックを持つようになって、もう水彩画はやらなくて、線画だけの簡単な絵ばかり描いて来ました。
当時住んでいた家から会社までの風景を、その場で5分とか10分くらいで簡単に描き取る感じで、街並みや駅のホーム、ランチで食べた料理など、文字で書き残す感覚で気になるものを描きました。
その頃はまだ「形」を描くことにこだわっていて、雲や暗所など、色の境が曖昧なものが苦手で、多分鉛筆画が多かったからもありますが、単品が多かった気がします。
そこからサイズ感とか距離感、空気感を描きたいと思うようになって、さらに今は「心情」や「雰囲気」を共通の意識してテーマにしています。
ライフワークというとなんだかカッコ良く聞こえますが、本当に「描くこと」しかできないんです。
それくらい、描くこと以外は長続きしませんでした。
決して上手くはありませんが、ボチボチと描いているので、よかったらまた覗いてみてくださいね。
実演販売員に扮した角田晃広さんが、通りかかった客役の飯塚悟志さん相手に声を掛ける。
いつものセールトークを始めたものの、飯塚さんは「無」の反応を示す。
そんな態度に苛立ち、怒り出す角田さん。
その時に見せる表情は、ここ最近あまり見なかった表情に思える。
だからこそ、懐かしさもあって描きたかった。
もしかして「あの表情?」と、共感できたら嬉しい。
絵を描く目的はいろいろあるけれど、「りんご」をりんごっぽく描くことも大切だけど、「あのりんご」をどう伝えられるのかをとても大切にしたい。
脳内にある「虚像」を描くよりも、「目の前」にあった実在感を自在に表現できるようになりたい。
似顔絵を描く時に、本人の雰囲気をどう取り込むのかが描き手のこだわりでしょう。
こみちの場合もそうでした。
ただ「似ている」ということではなく、「雰囲気」や「空気感」のようなそこに居ることで感じた感覚を自身が描いた絵でも感じて欲しいというのが描きたい目的であり目標です。
東京03のコントは、どれも質が高くて、笑えるという要素の他に、人間観察による行動心理が反映されていて、興味深さも感じられるので尊敬しています。
今回、描かせてもらったコントは「アニバーサリーウォッシュ」というタイトルで、実演販売員に扮した角田さんに呼び止められた飯塚さんが見せた「無の表情」です。
一方で、似顔絵として描く時に、メガネのような印象的なアイテムが多いと、描き易くなるのですが、逆にそれらが少ないと僅かな違いで印象が大きく変化してしまうので、初心者、中級者にとっては描き辛い題材です。
ただ、これは想像ですが、上級者になると「印象的なアイテム」が描き易さになったモデルが、さらにもっと奥深い部分を描こうとした時には影響力が強すぎるあまり、その存在感をどう和らげられるのかに苦戦するはずです。
つまり、デフォルメや誇張は、描き易さにもなりますが、印象が強過ぎて邪魔にもなり得ます。
飯塚さんを描いていて、メガネも無いですし、顔立ちに特徴的な部分もないので、「似顔絵」としては描き難く、さらに「表情」まで伝えたいと思った時には、誇張などしないで見たままをいかに描けるのかに尽きるでしょう。
今回、ある意味は人物のデッサンに近く、画力が試される形になりました。
今の実力で、飯塚さんの雰囲気をどこまで捉えることができるのかも含めて、挑戦してみました。
今回は角田さんを描いてみました。
これまでも何度か描いたことがある人ですが、コントシーンの一部として描くのではなく、人物画に近いイメージで挑戦しました。
描いたのは、「セカンドプロポーズ」というコントの一場面で、不満顔で飯塚さんを振り返って見つめるというところ。
コントとしては、場面が大きく動く重要なシーンですが、描くに当たっては「似顔絵」ではなく、表情や雰囲気も大切に伝われば嬉しいです。
東京03の人気コント『セカンドプロポーズ』は、結婚25周年を迎えた中年夫婦の話。
結婚生活とはこんなものだと思って生きていた妻にとって、25周年を迎えて改めて夫から二度目のプロポーズを受ける。
「嫌だな」
妻は初めてそう思ってしまった。
そして、今日のこのキッカケがなかったら…離婚など考えることもしなかっただろう。
そんなコントの中心的なシーンで見せる印象深い演出がこのシーンだ。
描いてみて思うのは、体を傾けた二人をしっかりと描くことが難しかったこと。
服のシワや体型から伝わる感じまで表現することが思うようにできない。
こみちとしては、まだまだ勉強しなければと思ってしまう仕上がりになってしまった。
しかし、このシーンの雰囲気が少しでも伝わっていたら嬉しく思う。
東京03のコント「セカンドプロポーズ」は、結婚25周年を記念し、当時結婚式を挙げられなかった妻のトヨミさんのために、夫役の角田さんが改めてプロポーズするというコント。
しかし、「当たり前」と思っていたこれまでの結婚生活に、ふと疑問を感じ、角田さんのプロポーズに応じないというトヨミさんがいる。
自身の思いや考えを語り出したトヨミさんを今回は描いてみました。
また、見たままを描くのではなく、トヨミさんらしい雰囲気を描いてみようとも思ったのですが、画力が足りなくて思うような描写ができませんでした。