もう少しで、ガラッと変化するかもしれません。
一気に画力が向上するような気配を感じるからです。
画面の隅々まで全力で描いたというよりも、目指している感覚に近づいた部分があったことと、今回はまだそこまで得られなかった部分があって、それらが整ってくると画力が一変すると思うのです。
ジワジワと上手くなるタイプではなく、階段的に段階を経てできるようになるタイプで、その意味ではもう少しでまた新たな領域に届くかもと思ったりしながら、その開花を待ち望んでいます。
もう少しで、ガラッと変化するかもしれません。
一気に画力が向上するような気配を感じるからです。
画面の隅々まで全力で描いたというよりも、目指している感覚に近づいた部分があったことと、今回はまだそこまで得られなかった部分があって、それらが整ってくると画力が一変すると思うのです。
ジワジワと上手くなるタイプではなく、階段的に段階を経てできるようになるタイプで、その意味ではもう少しでまた新たな領域に届くかもと思ったりしながら、その開花を待ち望んでいます。
自身が投稿するものが「描いた絵」なので、オススメされる記事も段々とそれになってしまうのでしょう。
描くことが好きで、これはずっと続くものに変わりなくて、やめるとか続けるということではなく、「あっ、この場面忘れたくないかも」と思った時に描きたい衝動になります。
そして、今回そう思った場面が、右の一枚。
触れた瞬間ではなく、触れそうな瞬間だからいいと思っています。
近づくことで、肌に相手の体温が感じられて、目を閉じていても近いことが五感でも感じとれて、「今、触れるかもしれない」と期待とときめきがあって…。
形を模して、色をつけることが絵を描くことなのかというと、そうではなくて、絵を見た時に見た人の過去の経験や想像にどこまで近づけたのかではないかと思うのです。
なので、例えば雪が積もる北国の駅前の景色とか、それはそれで味がありそうなことは分かるのですが、今のこみちが描いてみたいのかと言うとそうではないんです。
よく通勤中に電車内の乗客を毎日のようにスケッチしていましたが、残っているスケッチブックを見返すと形ばかりを気にしていて、今とはまた違う思いで描いていたのだと感じます。
どうすることが正解ということではなく、何をどう描きたいのか、それをどう描くことで伝えられるものになるのか、今はそんな気持ちで描くことを楽しんでいます。
今回の一枚もまだまだだなぁと思いつつ、でも、ここまで描くことができるようになるまでも、たくさんの失敗をして、またチャレンジしてを幾度も繰り返しての今だったりします。
伝えるだけなら、「画像」でもいいはずで、「描く意味」は描き手の思いが場面に少し乗ってくるからでしょう。
それこそ、完コピが最終目標なら、技術力を上げるだけでいいのですが、描く意味を考えると、どう感じるのかという感性も養わないと絵は上達しないと思います。
この一枚、どうでしょうか?
HARVEYさんらしさが上手く伝わっていたら嬉しいです。
兎にも角にも描くことが好きで、実力よりも少しれべの高いモチーフに出会った時に、あれこれと工夫しながら描くことが楽しいんです。
そんな中で、新たな発見もあって、例えば今回の一枚を描いた時にも起こったのですが、「だから、描くのって楽しいんだよなぁ」と思ったりするのです。
右の絵はスポットライトを浴びたシーンですが、光の描写はいつも不思議です。
というのも、描いていない部分でさえ、いつの間にか脳が見えない部分を補うことで、意味ある形として認識しようとするからです。
youtube のこみちチャンネルの方には、この絵の制作シーンを掲載しているのですが、途中で急に見え方が変わるタイミングがあって、その瞬間が面白いと感じます。
XG JURINさんです。
視線がとても印象的で、このシーンを描いてみたいと思ってチャレンジしました。
今年も好きなシーンや気になったシーンを描いて来ましたが、これで一応描き納めです。
来年もまたボチボチですが描いていきますので、良かったらお立ち寄り頂けたらと思います。
今年もありがとうございました。
そして、来年もよろしくお願いします。
絵を描くことを楽しむために、描画力を高めることも必要ですが、それ以外にも「アングル」に着目するのもありです。
例えば「花」 を撮影する時、歩いて立ち止まって眺めるいつものアングルではなく、しっかりと屈んで下から空を見上げるような方向から眺めてみるとまたち違う表情が見つかります。
今回は、まさにそんなアングルの変化を楽しむ一枚だと思います。
このシーンは、XGのCOCONAさんが撮影中にマスクを手にして休んでいたところです。
これが被写体と同じ目線になってしまうと、特に面白いシーンではなかったかもしれません。
しかし、ふと見つけたような意外さが加わることで、よりシーンを興味深くさせてくれます。
今回は画面の大半が顔になる構図です。
ここまで大きいのは、自信がなくて描けませんでした。
でも、髪の描写と、右目にピントが合っていて他がボケている描写をどこまで再現できるかチャレンジしてみました。
難しいシーンは大変さもありますが、やっぱり描くのは楽しいですし、少しでも表現の幅が広がればいいと思います。
ボチボチですが、頑張ります!
今回は、以前描いたHINATAさんのワンシーンを描くことにしました。
男性に比べて女性を描くには、髪と肌の描写が特に欠かせません。
こみち自身も試行錯誤しているポイントですが、色の変化をどこまでしっかりと描写できるのかで完成度が変わります。
ステージで歌うHINATAさんにスポットライトがあたり、熱唱する歌声が聞こえて来そうです。
そんな臨場感を一枚の静止画で表現したいのですが、どこまで描写できたでしょうか。
過去に、絵を描くこと、と言ってもデジタルでの話ですが、対価を得て「描くこと」を仕事にしていました。
最も「描くこと」だけではなくて、「デザイン」というとカッコつけていますが、顧客の話を聞かせていただき、その希望を「形」にすることを職業としていました。
なので、photoshop もillustratorも長く愛用して来ました。
ですがいろいろあって、その道から離れて、全く違う職業へと進みました。
元々、器用でもないし、頭がいいわけでもない。
どうにかこうにか、みなさんの邪魔にならないように働き、生きて来ました。
そして、今になって「自分とは?」と振り返ってみると、「描くこと」が好きで、その道を手放してはいけないことに気づき、youtube にチャンネルを設けて、細々ですがマイペースで描いては公開しています。
もう2年くらいは経つでしょうか。
活動は地味ですが、いろんな方が立ち寄ってくれて、コメントを残してくれました。
本当に感謝しかありません。
絵を描くことが好きだと言っても、才能があって続けている訳でもなく、正に下手の横好き意外の何ものでもないのですが、それでも自分には「描くこと」だけは大切にしなければと思っています。
右上の絵は、最近好きでよく聴いている「XG」のメンバー、JURIAさんを描いたもの。
描くことが遅くて、精度を高めることに没頭出来ずに完成にしていることもあって、出来はどうしても妥協があります。
それでもいろんなシーンを描写して、段々描ける範囲や深さも増して来たのではないかと思ったりしています。
この文章をどれだけの方に読んでもらうことができるのかも分かりませんが、こみち自身の決意というか、心づもりを記しておきたいと思って書きました。
まだまだ修正点も学ぶことも多いと思いますが、一回一回のチャンスを精一杯頑張ります。
速く進むことはできないのですが、一歩ずつ信じたい方へ歩き続けたいと思います。
今回描いたのは、こちらです。
COCONAさんが片膝を付いて、今にも飛び掛かろうとするくらいの気迫でこちら見つけたシーン。
普段とは描き方が異なり、線でしっかりと当たりをつけるのではなく、粗い下書きだけで着色して行くスタイルにしたこと。
こうすると、精密度は低下しますが、印象度は高まるので、このシーンに関しては今回のような試みもありではないかと試してみました。
今回はメンバーの中でも描くのが難しく思っている『HINATA』さんです。
なぜ難しいと思うのかは、顔立ちの特徴を掴むこと以上に、HINATAさんに感じる雰囲気をまだ表現できないから。
他人がどう思うかは別として、個人的な経験では「雰囲気」を感じ取れるとは、その人の表面的かもしれないけれど、接し方が分かることに似ています。
「こんな表情するよなぁ〜」という記憶が増えると、段階とその人との接し方も分かってきたように思えます。
そんな意味で、まだ「HINATA」さんは雰囲気がつかめません。
思うに、もう一歩踏み込んで接したら全く印象が違うからかもしれません。
だから、描いていても何か違うという違和感が払拭できないので、何度か描いていてもまだ苦手意識が抜けないのでしょう。
今回は、HARVEYさんです。
今までも東京03のようなコントシーンでは、男性出演者の全身を描かせてもらうことはありました。
しかし、苦手だった女性は、先ず顔をしっかりと描けるようになって、後々に様々なシチュエーションの描写ができるようになりたいと考えて来ました。
そこで、今回は完全な全身ではありませんが、スタイルを含めて描かせてもらえるモチーフを選んだので、チャレンジしてみました。
まだまだ、修正するべきポイントがあるとは思いますが、描くこと、描けるように少しずつ進歩できることに感謝しています。
難易度が高く苦戦しましたが、今の画力でどこまで再現できるのか頑張ってみました!
動画では、苦労しながら描いた痕跡が伝わると思います。
画面の中央に描きたいモノがあるというよりも、生きている一瞬を切り抜いたような絵に興味があって、例えば下のようなものを好んで描いています。
他にもアップしています。
お時間があれば、立ち寄ってもらえたら嬉しいです。
画像をアップしたのは『X』に変わって初めてで、すっかり使い方忘れてしまいました。
段々と慣れてきたら良いかなぁと思って気楽に始めます。
投稿した一枚は右の絵ですが、描く情報量が多くて、描くのが遅いこみちにはかなり焦る作業でもありました。
描きたいイメージはあっても、そこまで到達できないもどかしさもあって、どうにかこんな感じで仕上がりました。
「こみちチャンネル」でも紹介しているのですが、描く楽しさをみなさんと共有したいものです。
絵を描く方法は、大きく分けると2つのパターンがあります。
「落書き」のように描き手の感覚で描く絵と、「デッサン」のように描くべきものがあって、それに描き手が合わせる絵です。
プロの絵描きやイラストレーターとして活躍するには、「落書き」のような描き手の感覚をフル活動させたものに行き着く訳ですが、それでも「デッサン」を学ぶ価値は確かにあります。
「デッサン」というと石膏像を描くイメージかも知れませんが、こみちが思う最も上達の早い方法は、上手い人の描いた絵をたくさん見て学ぶことではないかと思います。
言ってしまえば、デッサンも経験を重ねるほど上達すると思うのですが、毎年同じくらい上手くなるものではなく、ある段階まで一気に上手くなって、その後はあまり伸びないこともあれば、経験を重ねてある時にグンと上達し、それは早々と上達した人よりも数段奥深い部分まで描けるようになっていたりします。
目の前に「りんご」が置いてあってデッサンした時に、先ずは「球体」をイメージして描くのは初心者にとって早く上達できる良い方法です。
そこから、鉛筆であれば、線の引く方向があると教えられるでしょう。
しかし、何度も描いていると、方向などは大きな問題ではないことにも気づきます。
なぜなら、少なくともりんごには線など描かれていない訳で、粗っぽい線だから方向に気をつけた方がいいという話で、描き慣れればその粗さは自然と解消しますし、明らかに間違えた線も引かなくなるからです。
例えば、大学の受験問題で、「真っ白な紙」をデッサンしなさいという出題があったら、どんな風に描くでしょうか。
その描き方次第で合否が決まるという大きな舞台で、とてもシンプルな描写を求められたら…。
ある意味、「りんご」はほどほどに複雑で情報もあるので初心者にも手頃で描きやすいモチーフです。
しかし、「白い紙」までシンプルになると、四角を描いたらそこから何をすれば良いのか戸惑います。
例えば、畳一枚を描くとなれば、白い紙を描く時と途中まで同じですが、実はそもそもの話として、四隅全ての「焦点距離」が本当に合っているものなのかから疑うことも必要です。
また、テーブルなどに置かれた紙の場合、紙によって作り出された影や、紙が外光を反射して周囲よりも白く輝いて見えるかも知れません。
つまり、描き方を知っているだけではデッサンはあるレベルまでしか上達できなくて、その先に行くには「紙の描き方」ではなく、「問題の意図の汲み取り方」が問われていたりするのです。
例えば、テーブルの上に置いたはずの紙が、横風でふわりと波打つように舞い上がった一瞬をデッサンしていたらどう評価するでしょうか。
紙は軽いので、簡単に風に吹き飛ばされます。
実際にはそれが起こっていなかったかも知れませんが、個人的には面白い着眼点だと思うのです。
つまり、デッサンとは、その一瞬を意味していて、ずっとそこから動かないように見えても、いつかはその場から移動されるであろうとも「モチーフ」を今描きます。
その瞬間に存在しているということをどれだけ、いろんな角度から観察し、平面図として再現できるのかが問われています。
適当にハイライトが当たっているはずはなく、また影も同じで何となく存在しているものではありません。
そんな風に観察してみると、デッサンは描く技術ではなく、観察力や想像力を試されていると気づくでしょう。
ある段階までは上達したのに、そこからほとんど伸びなくなってしまうのは、絵を「描く技術」と考えているからかも知れません。
上手い人の絵をたくさん見た方がいいというのも、上手いと感じるには理由があって、その時々で思う「上手さ」は変化していきます。
初心者が上手いと思う絵と、中上級とでは違っていたりするのも、経験を重ねてその難しさに気づけるようになるからでしょう。
絵を描くことは本当に楽しいことですが、「いつももうこれ以上は出来ない」と思いながらもがいていると、時々、新たな発見があったりして、それがまた嬉しくて頑張りたくなります。
こみちもまだまだこれから上達したいと思っているので、みなさんの応援や励ましに感謝しています。
最近の描写で特にこだわっているのは、女性の「肌」を描くこと。
男性と比較して、女性の肌は透明感があるので、それだけ色味の変化が微妙に変わります。
「描く」という行為以前に、「どんな色」かを見て判断することが難しいんです。
少し細かく言えば色味数%の変化に気づくことが大切で、それは当たり前にできる訳ではなくて、時間帯や体調の変化でも感じられる繊細さが変わるので、それをできるだけ安定させなければいけません。
今回の一枚以外にも、最近はその微妙な変化を感じられるように頑張っています。
絵が好きで、描くのが好きという人はたくさんいると思うのですが、描くことを通じて仕事や趣味に繋げるのは簡単ではなくて、だからこそ「あと一歩だけ」前に進むことをいつも思って描くようにしています。
なぜって好きなことなので、せめて自分から制限しないようにしたいです。
めちゃくちゃ真面目なことをテーマにあると、「AI」が「自己思想」を持っているかどうかで現時点での話も変わると思っている。
例えば人間認識できる「画像」をAIが自動で作ったとしても、実際にはまだ人間が描いて欲しいヒントを与えなければいけないのなら「自己思想」を持っているとは言えない。
つまりそれは、まだAIは言われた情報を使って「多分」という画像を作り、それを最終的に人間が判断しているから。
そうではなく、AIが自分のタイミングで画像を作り出し、そこに人間にとって意味や価値あるものとして「受け手」になった時、いわば僕たち「絵師」と同じポジションに立つのだろう。
ただ、時代の変化は凄まじく、完璧な完成度が常に求められているのではなく、時にはその前段階のイメージ部分だけでも十分だったりすることが増えていて、その意味ではAIが「自己思想」を持っているかどうかよりも、社会的なニーズに素早く応えてくれる存在であることに大きな強みがあるだろう。
こみちなどはどう頑張って描いても、1日で絵を仕上げるスピードはないし、もしもそれを強行すれば疲れてしまって段々と質が下がってしまう。
ところが、そんなことを100倍、1000倍、もっと速いスピードで行えるなら、それこそ描く「スピード」という意味ではもう太刀打ちできないだろう。
見た情景を残すなら、例えばカメラで撮影した方が描くよりもずっと簡単で手軽で、正確だろう。
だから、描いた「絵」の上手いか下手かの判断は、カメラの撮影と比較すると全く異なるレベルの話で、どんなに上手い人の絵でも、今のカメラよりも高精細に描くことはやはり無理がある。
だとするなら、絵を描く意味はどこにあるのか。
それはカメラでは写しきれない「見えない情景」をどこまで描くことができるかになる。
料理にもいろんな味付けがあるように、「素材」だけを提供することが料理ではないから、「絵を描く」時もそこに描き手の感情やその場の雰囲気や臨場感、色味や濃淡など、伝えたい「感情」にどこまで寄り添うことができるのかが大切だ。
いわゆるデッサンは、目の前の情景を残すための技法だが、言ってしまえばそれは「テクニック」に過ぎない。
よく、空気感や質量、光の存在などをデッサンの完成度を評価する際に用いると思うけれど、そこにある程度の描き手の選択はあっても、いわゆる「絵を描く」意味には至っていない。
というのも、上手いと言われる人の絵とプロの絵の違いは、見れば明らかに気づくだろう。
例えば、音程通りに歌える人を歌が上手いとはいうけれど、それで「プロ」とは呼ばないのに似ていて、受け手がしっかりと良さに気づき、そして意図を受け取れたことに大きな意味があるからだ。
例えば、上手い絵には違いないけれど、そこにどんな理由や意図があるのか全く分からないとしたら、その絵を自分の部屋に飾ろうと思うだろうか。
逆に、まだ幼い絵だとしても、それが我が子の描いてくれたものだったら、その絵を見るだけでホッコリしないだろうか。
つまり、これこそ絵を描く意味で、例えばAIが子どもの描いた絵を真似ても、それに感動する人はいるだろうか。
そもそもは「XG」の音楽が好きになったから。
そこから「XG」の映像も見始めて、グループ誕生の経緯や一人ひとりの個性も分かって来た。
「この「娘」、よくこんな表情をするな」とか、「この笑顔っていいなぁ」とか、ステージに立っている時以外の表情も気になったりする。
それはみんな同じではないし、違うからこそで、さらに「XG」として大きな結びつきも感じられるから、自分たちのグループを大切にしていることが伝わるし、ファンの端にいるこみちみたいなにわかにも癒しを与えてくれる。
時に「何でこのシーンを描いたの?」と思われるかもしれないが、表情や仕草が気に入ったり、絵を描く上で伝えられるだろうかという絶妙な雰囲気を捉えたくなったりもするから。
今はまだまだ描いてみたいと思うシーンがあるので、「XG」の絵を描かせてもらっている。
というのも、グループの活動は永遠ではないだろうし、たまたま曲を聴き、XGの存在を知ることができた訳で、タイミングが違っていたら知らないままだったり、解散とか活動休止などになって後追いで辿ることになっていたのかもしれない。
一期一会だから。
下手な絵を見せられても、嬉しくないかもしれないけれど、少しでもそんな気持ちもあって描いていることが伝わってくれたら、「絵を描く」意味が見つかりそうだ。
絵を描くという行為も、最初から上手く描ける人はほとんどいないでしょう。
形が取りやすい、取れなくても違和感がないなど、描きやすいものから始めて、段々と描けるモチーフが増えてくるというのが「画力が上がる」ということでもあります。
例えば、ボールを丸く描くのは、初心者向けのモチーフです。
しかし、紙風船やボーリングの球など、重さや質感を意識すると中上級のモチーフでしょう。
さらに、照明の当たり具合や使い古された劣化まで意識できると「作品」になるのかもしれません。
言ってしまえば、実際のキャンバスに描く線は、描く内容で変化するものではなく、「組み合わせ」の違いに過ぎません。
ですが、段階を経ることで、より真実に迫る描写ができるのも事実で、それが経験則です。
ここからが「AIの描く違和感」の理由を想像する話になるのですが、デジタルという描写の場合、「線」という概念も後付けで、言ってしまえば「ピクセル」のコントロールさえできれば、実写風にもイラスト風にもできてしまいます。
人物を描写する際、人が描く時には、「現実味」という感覚を持っているので、コレはあり得ないという違和感を無意識のうちに感じとり、避けて描きます。
これは画力が上がる中上級者の方が初心者よりも強く、だからこそ破綻しない絵を描くのでしょう。
一方で、AIが描く場合、そもそも「人間」という概念をどこまで理解しているのでしょうか。
性別や年齢、性格をどこまで感じ取り、描く際の違和感に含めているのか。
つまり、「人」という画像の特徴的な情報を数多く学習し、「人はこんな形」と認識しているのだとしたら、その情報は人間が感じるよりも繊細に分類できているでしょうか。
例えば、アジア人という雰囲気があって、でも日本人というのはまた少し異なります。
関東と関西でも何となく違うと思うのは、骨格というフレームの違いではなく、姿勢や表情、仕草などから感じるのかもしれません。
では、関西人という人物を描きたいからと言って、どんなイメージを浮かべるでしょうか。
身につける洋服や小物、髪型など、今の時代に明確な違いはほとんどないはずで、でも何となく「関西人」と思える癖を捉えられたら、作品としての意味は増します。
しかし、現時点のAIが関西出身とか、お笑いを見て育ったということを踏まえて、人物像に反映させていないのだとしたら、描く絵はいつも、どこの誰か分からない人になってしまうでしょう。
つまり、美人や美男子だとしても、生活感を全く感じられなかったり、性格や人柄が見えない違和感があったりして、それがリアルに描かれることでさらに「何か不思議」という認識を与えてしまうのかもしれません。
別の言葉で言い換えれば、「血が通っている」という感じを表現する難しさを超えなければ表現できないことがあって、その意味ではまだAIの作る絵には無いものがあるのかも知れません。
それ故に、「何か不思議」という無意識の印象を与えてしまうのでしょう。
言ってしまえば、AIには気にならないようなことが、人間には耐え難い「こだわり」になったりするのでしょう。
その問題を解決するには、「上手く描く」という領域の話ではなく、「人間」とか「生きる」のような広い範囲での解明が必要です。
ただ近年、人がAIに慣れることで、違和感を人間の方で補完しているので、「違和感?」と思う人もいるということでは無いでしょうか。
最近、よく聴いているXGですが、彼女たちの表情を見ていると、今の画力でどこまで表現できるだろうと思ってしまいます。
右に掲載したのは、HARVEYさんが祖父母と再会し、嬉しくて満面の笑みを浮かべたシーンです。
真顔と時とは違う目元など、単純に線で追っては追い切れない表現も含まれていて、少しハードルが高いモチーフでした。
また、網目の衣装越しに透けた素肌など、男性を描く時には無い表現も女性を描く場合には多く、画力を問われるので難しいです。
単に似ているという視点ではなく、その人の人柄や雰囲気を再現させたいと思っているので、描きながらどこにその人らしさが溢れているのか、常に感じて描き進めています。
時に最後までしっかりとした手ごたえが得られないこともありますが、あるタイミングで気づけた時は描く楽しみが倍増します。
まだまだ修正と改善の余地がある仕上がりですが、少しでもその場の臨場感が伝わっていたら嬉しく思います。
今回描いたのは、バカリズムさんをゲストに迎えてショートコントを披露した場面。
もしも女子だったらという設定でのネタでしたが、バカリズムさんらしい雰囲気に溢れていて好きなネタです。
ネタを終えて、舞台袖でその様子を見ていた角田さんが現れて、3人がそれぞれ反応したシーンです。
真ん中のバカリズムさんが見える笑顔は、角田さんを見てこその表情だったりしますが、それぞれの性格が伺えるようないいシーンです。
似顔絵というと誰かに似せて描くことになりますが、こみちとしては外見が似ているというよりも、雰囲気を描写したいと思って描いています。
その感じが上手く伝わってくれたら、描いたチャレンジも成功なのですが…。
デッサンというと、対処物をどれだけ正確に描き取れるか習得することと思いがちだ。
石膏像の模写ばかりしていると、段々とモノクロスケールに脳が勝手に変換して、「形」ばかりを追ってしまう。
しかし、今回の一枚は「似顔絵」という要素よりも、女性特有の透き通るような肌質をどう描けばいいのかに挑んだものだ。
左頬側面に強い光が当たり、前側に回り込むように影がさす。
例えば拡大すると鼻の形などはかなり不鮮明で、でもしっかりと濃淡が再現されると「鼻」に見えて来る。
つまり、「形」が正確だから「伝わる」のではなく、「濃淡」が正確なら「脳」が勝手に理解してくれるということ。
不安になって描き手が「嘘」を描くくらいなら、しっかりと「見えたまま」を追うことで、本当に伝えたいものが勝手に伝わってくれる。
言ってしまえば、色のついた線を重ねているだけなのに、ある段階から何か意味あるものに見えて来るから楽しい。
「描くこと」は、ある段階からそう変わっていくように思う。
思うに、3ヶ月前の画力ではここまで意味ある描写はできなかっただろう。
もちろん、似顔絵として似ているいないという意味ではなく、今後も描きたいと思う方向性を見据えた時に、「これを描きたかった」にはなっていなかったと思う。
まだまだ手ごたえの段階ではあるけれど、描くことが本当に楽しいし、さらに望んでいるような描写ができるまでになりたい。
「絵を描く」と言っても、サラッと描く落書き的なものから、油絵のような手順を伴うものまでいろいろあります。
描く目的や表現方法によって合う合わないがありますが、今は紙にスケッチするのと、デジタルでの描画が中心です。
特にデジタルの場合、何度でも描き直すことができるので、それがとても役立っています。
今回、描いた一枚は、XGの「MAYA」さんの似顔絵になるのですが、苦手意識が強かった女性の描画に対し、一定の手応えを感じられました。
こちらの一枚は、全体に占める顔の割合がとても高く、おでこからあご先までの描写が十分でないと、とても単調になってしまう可能性があります。
なので、ある程度、画面にいろいろなものがあると描きやすくなるのですが、この一枚に限ってはそれが試されたことになります。
背景や衣装がかなりシンプルでしたが、どこまで表情を表現し、破綻しないように描き切れるのかという点で、こみちなりの進歩が得られました。
ボチボチではありますが、絵を楽しく描くことをお伝えできると嬉しいです。
たまたまある芸能人の方の記事を目にした。
あまり芸能人に詳しくないこみちだが、テレビなどでその方を見かけた時に「明るい」印象しか受けていなかった。
でも、記事によれば子ども時代から苦労していたようで、芸能界に入ることで「家族を支える」役割を担っていたという。
言ってしまえば、明るい笑顔で接してくれる人が、家に帰れば「介護」をしているということだってあり得る。
ちょっと接しづらい雰囲気の人が、もう一歩親密になればとても気さくで面白い人だと気づくこともある。
何が言いたいのかというと、「絵を描く」とは、その人の何を描いているのかということ。
つまり、顔形こそ模写することはできても、到底、その人の抱える生き様を全て描き切ることはできない。
結局、「どう見て欲しいのか?」ということだろう。
全く同じ場所から描いた風景画も、その日の天候や描き手の体調、心理状態によって無限に変化する。
でもなぜ、そのタイミングだったのか?
つまり、それを選んだことに大きな意味があって、描くことの目的も生まれる。
例えば似顔絵を上手に描く人はたくさんいる。
「似てる!」「そっくり」と見た人が驚き喜んでいくれると描いた苦労も忘れてしまうだろう。
でも、こみちの場合はちょっと違う。
最初は「何、このシーン?」と思われるかもしれない。
「全然、似ていない!」とも思われるだろう。
描く技術が未熟で見たままを描けないのは練習するしかないけれど、大切なのは「選択する」という部分。
長く同じモチーフを描き続けていると、後でそれらを見返した時に不思議な共通点が見えて来る。
つまり、その共通点こそが、その人のその人らしい「全て」なのだ。
「よくこの顔するよね?」
さらに観察していると、表情や仕草のキッカケに気づく。
「だからまたこの顔したんだ!」
そうやって段々とその人らしい反応に気づけるようになる。
今は、まだその領域には至っていない。
仕草や表情の中で描いてみたいものを見つけると描けるかなとチャレンジしている段階だ。
今回描いたのは、XGのジュリアさん。
斬新な構図ではないけれど、立体感や透け感を描けるモチーフなので、現段階でどこまで再現できるのかを試してみました。
まだ機械的な描写になっている気がするのですが、とはいえ現状を知るにはいい機会になりました。
例えば、アスファルトに打ち付ける雨を描こうと思った時に、「水滴」の描写ができなければそもそも成立しません。
これと同じで、今回の場合、横顔の描写とベールが描けないと他に逃げ場のない構図です。
以前までは、「形」を追うようなモチーフが中心だったのも、逃げ場が多くて誤魔化しもできるからです。
しかし、本当に描きたいものを描こうとすると、似顔絵も似せることで終わってしまうとこみちの場合は未完成で、やはりその場の雰囲気まで描けるのかが課題だと思っています。
つまり、「横顔」に関しても、「誰なのか?」という一面もありますが、「どんな表情なのか?」という視点も生まれます。
無表情の横顔を描いて、それが誰なのか分かることを最終目標にしていないので、「ジュリアさんっぽい」と感じてもらえるかが最大の目標です。
こみちにとって、「描く」とは写真撮影に似た行為です。
カメラを持って散歩すると、何も持たない時よりも景色をよく観察しています。
何となく「構図」が浮かんで、カメラ越しに景色を眺めてパシリ。
カメラなければ、その道を淡々と通り抜けたはずです。
描くというのも同じで、「描けるだろうか?」ということがポイントです。
似顔絵であれば、誰を描いたのか分かるとか、目や鼻、口の形状や立体感、質感などをどこまで再現できるのかも、描くことの楽しみになります。
一方で、最新のパソコンを使えば、文章の他に絵を描くこともできるそうです。
ネット上にある画像を見つけるのではなく、新たな条件を元に描いてくれるということです。
ひと昔前なら、車の魅力にエンジンフィーリングというものがありました。
いわゆる自然吸気のエンジンなら、滑らかに噴き上がるフィーリングが心地良かったり、ターボエンジンなら過給機が作動し、爆発的に加速が高まるワープするような感覚が癖になったりします。
フィーリングとしては全く異なり、でも優劣では判断できないそれぞれの魅力がありました。
しかし、それはシフトチェンジをドライバーが自身で行っていたということも関係しています。
オートマ車が一般的になり、自動的に変速してくれるのに慣れてしまえば、操る楽しさよりも快適さの方が優先されるでしょう。
この感覚は、「描く」にも言えて、初心者がコップや花のようなモチーフから始めて、段々と複雑なものを描けるようになる楽しさがあったのですが、今は自動生成で条件さえ伝えれば、自動的に絵が出来上がります。
苦労なく簡単にできるという意味では、変速を車がしてくれるオートマ車のようです。
例えば自動車レースで、卓越した技術を持ってより速く走らせられるレーシングドライバーがいます。
でも、未来には彼らよりも素早く操ることができるAIが登場するでしょう。
それはつまり、我々が「車を運転する」ということがなくなり、「車に連れて行ってもらう」という感覚に変わった時です。
そうなれば、エンジンフィーリングよりも、静粛性の方が大切で、無駄に大きな音である必要もありません。
振動さえない方がいいので、エンジンを始動させても気づかないくらい静かであることが求められるでしょう。
確かにスマホを持ち歩くことが当たり前になって、絵を描く必要性は高くありません。
描くよりも撮影した方が早いから。
そうだとすると、何もかもを機械がしてくれる時代になり、暇になった人間が何をして時間を過ごすのかという時代になります。
それこそ「楽しいマンガが読みたい」と言えば、自分だけに向けて作られた話でマンガを自動生成してくれるでしょう。
でも、これまで絵を描いて無駄だったとは思っていません。
それは冷凍食品がより美味しくなっても、やっぱり自分で料理したいと思うからです。
万人が美味しいと思う冷凍食品も、何度も食べていると飽きて来ます。
メーカーを変えたりしても、やはり飽きが解消されることはありません。
言い換えると自分で作ることで、その飽きが解消されるのは、決められた答えとは違うことが大切だからでしょう。
つまり、パターン化されないということが、人間らしく暮らすには欠かせなくて、便利さは効率的ではあるけれど、時に味気なさも伴います。
絵を描くだけではなく、生活面のいろんな部分が自動的になり、人間は機械に支えられるようになるでしょう。
受け身のままでも不自由はないかもしれませんが、常に受け身のままでは感動も充実感も段々と狭まってしまいます。
その意味でも「描く」という意識が、人間らしさを保つキッカケになり得ます。
絵を描かなくとも、カメラ撮影でもいいので、少しいつもとは違う意識で行動する手段を持つことが現代人には必要になるのでしょう。
角田さんを描いた回数もかなりの数になっている気がします。
今回描くにあたり参考にした画像が、いつもよりも高精細なものだったので、それだけ描く時にも色味の変化を細かく観察できました。
なので、仕上がったイラストも、それだけいつもは違う感じになった気がします。
今回は、ダウンジャケットの光沢感やフワッと柔らかい感じを描いてみたかったのですが、とても楽しく描くことはできました。
こみちにとって、女性を描く時に特に気になるのは色味の細やかな変化です。
同じ色に見えて微妙に変化しているので、その辺は男性を描くよりも簡単ではありません。
今回は第二弾で、XGのCHISAさんを描いてみました。
とても肌がキレイで、上からの照明でさらに透明感が増し、そんな質感をどう描けば上手く再現できるのかと、とても苦労しました。
その意味では、まだこみち自身のアレンジを増やすよりも、見たままをどう描けるのかという視点で描いたものです。
完全度としては、もう少し努力が必要ですが、描きている中での手ごたえや楽しさは見つかったように思います。
たまたま見つけたyoutube チャンネルで、石膏デッサンをひたすら描き続けるという内容でした。
その時に思ったのは、「目の前置いて描いているの?」という部分。
癖でデッサンに特徴が出ているなら「そうなんだ」という話ですが、明らかに線が一定の効果で狂って見えたからです。
つまり、カメラで撮影し、それを元に描いているのではないかと…。
別にデッサンの試験でもない限り、直に見て描く必要性はないと思うのですが、そこで見たデッサンが広角レンズ特有の歪みに似ていたので気になってしまいました。
最近、youtubeであたしンちをよく見るのですが、「絵」としてはとてもシンプルで、でもキャラクターの表情や仕草がとても伝わって来ます。
ある意味で「上手いマンガ」だと思うのですが、「上手いイラスト」とはまた違います。
デッサンは、目の前の物を描くという前提があって、そこから始まります。
しかし、「コレを描こう!」というモチベーションは、描く技術以前の話で、生き方や興味の持ち方、趣味嗜好があらわれます。
好きな芸能人の似顔絵を描きたいと思うこともあれば、何の変哲もない景色なのにどうしても描きたいと思える瞬間があったりします。
言い換えると、描くに至った動機こそが大切で、それが省かれてしまうと、描いた根拠が全く見えません。
富士山の絵を見せられて、「嗚呼、富士山だ」とは思っても、特にそれ以上に想像を膨らませることはないでしょう。
つまり、なぜ描くに至ったのかというアプローチが必要で、逆に言えば、たとえ絵は下手だったとしても、ドラマチックなストーリーがあれば感動できるように思うのです。
だからこその「この絵」という説得力です。
上手いイラストを描くことは技術的な話で、上手くマンガを描くことはストーリーの作り方が上手いというでしょう。
なぜなら、デッサンが無駄に狂ったイラストは見る価値が感じられませんが、たとえ絵が下手だとしてもストーリーが面白ければマンガとしてはとても価値があると思うからです。
そして、マンガに含まれるイラストは、描き慣れれば確実に上手くなるもので、でもマンガで欠かせない「ストーリー性」は慣れるだけでは上手くなりません。
女性を描くのは難しく、それは同じような色味でも様々な色が使われていて、それだけに繊細な描写が求められるからです。
今回選んだアングルは、とてもオーソドックスですが、それだけに画力が伴っていないと描けない気がしていました。
実際に描いてみて、画面に対してどう描いていいのか分からなくなるインプット側の情報量不足は感じませんでしたが、アウトプット側のその情報量を反映させる難しさに戸惑いました。
まだまだ完成度としては十分ではありませんが、一定の手ごたえを感じることができました。
特に左頬の立体感を今回の個人的な目標にしていたのですが、左に流れる前髪との空間やフェイスラインへと回り込む曲面なども意識して取り組めたと思うからです。
もう少し精密に描けれるとよかったのですが、制作時間と作業の遅さもあって、この辺りは仕方ないとも思います。
先ずは、苦手な女性をここまで描けることができたとして、また挑戦したいです。
今回は、XGのMVからワンシーンを選んで、描いてみることにしました。
今は前回よりも少し当たりをつけて描いているところ。
前回が下側のものなので、まだまだ手直し中です。
似顔絵としても、雰囲気を反映させている段階ではなく、位置関係の確認段階です。
完成まではまだ時間が必要ですが、今回この構図を選んだ理由があって、その幾つかの課題を克服できるように頑張ってみたいと思います。
描きたいアングルではあるけれど、「絵」として成立させるのは簡単ではありません。
まだ下書きから着色を始めた段階で、これから修正も加えていくところです。
ここからどれだけ寄せられるのかが分からないので、描いていて不安と期待があります。
苦手な女性ですが、色味の僅かな変化を追っていけたらと思います。
腰を屈めたポーズを描いてみたのですが、顔を描写するのと同様に、ポーズもその人らしさが現れる部分だと思います。
実は、今回のイラストで、左側に立つ飯塚さんを描くことに苦労しました。
言ってしまえば、真っ直ぐに立っているだけなのですが、細かく観察すると微妙な違いがたくさん見つかって、それを修正するにはとても繊細な描写が必要だと知りました。
もちろん、立つポーズとして不自然でなければいいということもできますが、肩の引き方や背筋の伸ばし方がその人らしさに繋がります。
最初は右側の角田さんをどう描こうかというところから始まったのですが、気になってしまってなかなか納得できるような仕上がりになりませんでした。
しかも、横を向いた飯塚さんの顔立ちにも苦戦し、改めて人物画を描く難しさを実感しました。
クネクネする動きの角田さんと、そんな姿を少し冷やかに眺める飯塚さんとのシーンですが、その雰囲気が感じ取れていたら嬉しいです。
似顔絵などで誰かを描くことは多くても、複数人を密着した関係のままで描くのはハードルも高くなります。
今回はしっかりとしたデッサンではなく、ラフな下絵ですが、先ずはどれくらいまで情景を描けるか試してみました。
これ以外にも約10枚、いろんなポーズを選んで挑戦しました。
人間の厚みや関節の位置など、単体で描く時以上にポイントとなる部分を意識してみたのですが、以前よりも下絵段階での情報を多く描き込めた気がします。
ここからしっかりと手直しすれば、このアングルに関しては大丈夫そうです。
機会があれば、いろんなポーズを選んで描き、表現の幅が広がってくれたらと思います。
洗濯バサミがたまたま目に入ったので描いてみました。
全体的に色が乗り、形もほぼ確定したという段階です。
ここから、透明なプラスチック製の質感や光の反射、他に奥行き感なども描いてみたいと思います。
今回の描写では、洗濯バサミの先端に最も焦点が合っていて、そこから次第にピントが甘くなってボケも強くなります。
洗濯バサミを摘むあたりで既にピンが合っていないほどなので、その辺りの描き方も工夫できたらと考えています。
今の画力でそれがどこまで再現できるかは分かりませんが、もう少し「洗濯バサミ」と向き合って描いてみたいと思います。
今回、いつも描く東京03ではなく、ふと目に入った洗濯バサミを描いてみました。
人物を描く時、「線」にも味のような曖昧さが必要になりますが、モノの場合にはその曖昧さがリアリティを失う要因だったりします。
右のイラストは、下書きの段階ですが、「洗濯バサミ」の当たりをつけたものです。
ここから、洗濯バサミの材質を描き込むことで、さらに実在するイメージを高められると思います。
身近なものを改めて描いてみることで、デッサンとは言わないまでも表現力の基礎鍛錬になればと挑戦してみました。
飯塚さんは、表情が豊かな人で、イメージする顔がとても変化します。
そんな理由もあって、似顔絵として描こうと思ってもイメージと目で見ている原画との違いで、何をどう描けばいいのか迷ってしまいます。
結果、いろいろと試行錯誤を経て右のようなイラストになりました。
スーツやネクタイはササっと簡単に描いてしまいましたが、顔部分だけに絞ってもイメージするような仕上がりになるまで時間が掛かりました。
男性を描くよりも女性を描く方が難しく感じるのは、描く際に感じる情報量が多いので、同じような構図でも作業量が格段に違います。
ここ最近、コツコツと描いて来た一枚ですが、もうそろそろ終わりにしたいと思いつつも、修正や手直しできる箇所がまだまだたくさん残っていて、それをどこまで追い切れるのかという自問に悩みます。
以前の時の3人の距離感やそこにある空気感をどう描けるのかというような話をしたように思いますが、今にもスタンドマイク向かって歌い出しそうな雰囲気が感じ取れたら先ずは課題クリアです。
さらに、洋服を着ているということではなく、それが各人の好みや個性を反映しているのであれば、ちょっとした目線の位置が顔の角度、立ち姿に性格まで感じ取れるならそこもしっかりと描きたいところです。
男性に比べて、女性は情報量が多く、それをしっかりと描くには時間も労力もかなり使います。
もう少し手を加えるか、これくらいで完成にしてしまうか。
そんな感じで、ちょっと悩んでいます。
女性を描く難しさはいろいろありますが、例えば「肌」などもその一つです。
男性に比べて、明度差も色相差も少ないので、同じような色味の中で違いをしっかりと描き分けなければいけません。
アニメっぽく、単色でベース色を塗り、ハイライトやローライトをポイントで加えて三段階で表現することも方法です。
しかし、もう少し存在感を表現したいので、色設定を増やして描きたいです。
右上のものは、部分的には三段階もありますが、もう少し色味を増やしていたりします。
まだ空気感がないので、斜めに三人が並んでいるのに、そんな感じには見えません。
個別の描写に加えて、全体としての色味のバランスが整えば、その段階で空気感も生まれると思います。
とは言え、現状ではまだまだペラペラ感しかないので、その辺りがこれからの課題です。
今にも歌い出しそうな雰囲気まで再現できたら、個人的な課題はクリアなのですが。
いつ描いたものか忘れましたが、右に掲載したものは皇居を訪れた時にスケッチしたものです。
この下書きを使って作品を作るというよりも、気になった景色を自由に描くというつもりで描いたものです。
何が言いたいのかというと、最近の悩みとしては「風景画」って何だろうという話なんです。
よくあるのが、「道」や「線路」、「川」などと「空」とを組み合わせた風景を描く際の構図ですが、「描いた意図は何か?」という部分で画力向上の練習課題と作品作りとでは大きな隔たりを感じます。
ちなみに、描いた下書きは櫻田門になりますが、櫻田門がどんな建造物なのかを理解し、そこにどんな思いや意図を乗せて描いたのかがあってこそ作品としての意味もあると思っていて、遠近感の描写練習とは全く制作意図が変わって来ます。
こみち自身、単純に画力を向上させて、いろんな見たものを自身の手で描きたいと思って来た一人ですが、この下書きも練習の範囲であって制作ではありません。
言ってしまえば、右の下書きも着色してどんなにリアルに描けたとしても、「だから何?」という問いに答えられるものではありません。
風景画を見て、どう感想を持てばいいのかと思うのです。
なぜなら、川と空を組み合わせた構図を、日常生活でそんなに見かけるものではありませんし、見かける機会があったとしても、「いいねぇ、この川の流れ」とは思ったりしません。
人物画の場合、それを描く目的は対象となる人物を少しでも自身の腕で描きたいと思い、実際に少しでも描けた部分や感じられる雰囲気があると、それが伝わると嬉しいからです。
しかし、そもそもの前提として、「風景画」をどう描くことがいいのかがこみちには理解できていません。
もちろん、風景画も目の前に見える造形として描くのであれば、人物画同様にこの部分を表現できるだろうかと個別の課題には落とし込めます。
ですが、カメラやスマホで撮影した画像と何が違い、そこにどんな意味を乗せられるのかに悩むのです。
カメラを使っている人なら伝わると思いますが、レンズを通してしまうと肉眼で見る時とは少し異なっています。
その違いがあったとしても、そこにこだわりカメラの撮影を否定する人はいないでしょう。
逆を言えば、撮影は一瞬で終わるのに、数時間を費やして描く意味とは何かの方が悩みます。
風景画というものを否定しているのではありません。
風景画を描きたいけれど、「意味がありますか?」という話なんです。
こみち自身としては画力向上という課題にはできますが、例えば別の誰かが描いた風景画を見て、どんな風に感じるものなんでしょうか。
例えば、水彩画では、一般的なデッサンレベルで対象物をそのまま描いたりはしません。
ある意味で、全体的な雰囲気を描き手の感性で省いたりしながら印象的に絵作りするイメージがあります。
それもまた制作意図ではあるのですが、例えばその時に「木」が既に何の木なのかも分からないレベルで描かれてしまったら、その元の風景はどこまで重要なのでしょうか。
渓流の水しぶきを風景画として見せられて、例えばあまりの迫力で思わず仰反るほど水量に驚くでしょうか。
水の流れる音や風を感じられるでしょうか。
行ったこともない場所に一瞬で移動し、そこに立っているような錯覚をその風景画から感じられるでしょうか。
こみちとしてはそんな風に考えてしまうので、カメラで動画撮影した映像以上に風景画を見て感じる絵作りに自信が持てません。
見たままを描くことは、練習課題にはなりますが、見たままの絵を見て、スケール感や重さまで伝えられるのは簡単ではありません。
しかもそれはカメラ以上となるとかなり難易度が上がり、わざわざ描く意味が現代だからこそ見つけられないのです。
対象物の本質を理解する難しさに直面し、「コレを描こう」と思うのは簡単でも、「描いたもの」に何か意味あるメッセージを乗せるのは簡単ではありません。
今言っているのは、テーブルにリンゴそっくりな鉄の塊が置いてあって、それは本物そっくりに着色もされているけれど、その普通の重さではない感覚をどう絵として描けるのかということに似ています。
描いているのは「XG」で、3人の立ち姿になります。
男性とは異なり、ファッションや髪など、女性を描く際に欠かせないポイントがあるので、それをどこまで再現できるかが問われます。
右の段階は下書きをして、個々に色を載せたところですが、ここからの微調整が最も完成に影響を与えるので、注意しなければいけません。
苦手意識があるので、少しでも上達を感じられる手ごたえが得られたら嬉しいのですが。
今回描いていたのは、東京03の舞台でハーモニカを吹く角田さん。
スポットライトに照らされた雰囲気まで表現したくて、挑戦した一枚です。
柄の多い衣装で、しかも大きなシワがあって、それらをどこまで正確に描写するのかも問われた構図ですが、完璧には再現できなかったものの、全体としての雰囲気は上手く伝えられたのではないかと思います。
パッと見て、今にもハーモニカの音色が聞こえそうだったら、大成功なのですが…。
手すりの描写など、結構省いている部分もありますが、そのシーンを見たことで、舞台がさらに印象深いものになれば嬉しいです。
舞台に立ちハーモニカを奏でている角田さんを描いています。
今回の制作で課題にしているのは、照明に当たっている様をどこまで再現して描けるのかです。
完成までまだまだ修正したい部分がありますが、大まかに色を乗せたところで、ここから細かな修正をします。
今日は少ししっかりと描いて、明日はどこかのタイミングで動画としてアップしたいです。
絵を描く時に、「形」を追って線を引いてしまいます。
例えば、右側載せたイラストは単なる線ですが、見方によっては何か意味あるものにも見えてきます。
トレース(なぞり書き)をしたことがある人なら、境界線を引いているだけなのにそこに作り出された線の集合体が急にリアル情景に見えて驚いたことがあるでしょう。
また、描く人によって現れる「癖」は作風となり、本当の線ではないけれど、それとは異なる意味を持つものへと変化します。
例えば、その下に載せた線の集合体も、「線」と言ってしまえば線でしかありません。
しかし、何か意味や作為を探してみると、自身の経験から呼び出される記憶があります。
ただ、絵を描く上では、明度差を探して線を引こうと思っても、空に浮かぶ「雲」や衣類の「シワ」を描写するのは困難です。
しかも、不慣れなら描きたい線とは異なる線を引き、集合体として確認してもそれは意図したものとは別ものです。
その意味でも、「線」として対象物を観察してもいいのかという疑問に行き着きます。
例えば、最近の話では「線」として描くのは下書きだけで、その後は「面」として考えていることが増えました。
一番下に掲載した男性二人のイラストで、特に右側の人物の顔を「線」として描くのは手間が掛かります。
理論的には「線」でも「面」でも同じ結果ではありますが、描く手間としては「面」として描く方が感覚的に楽に感じます。
今回は「線」という身近なものから、広がって行く創作の世界観を考えてみました。
人物画を描こうと思った時に、その人の顔立ちに似せたくなります。
また、全身を描くならプロポーションも同じで、実際と近い方が臨場感も生まれます。
「絵」だから無意識に加工しやすいのですが、理想に近づけて描いてしまうとどれも同じような仕上がりになって、描く意味が失われます。
意外と椅子に腰掛けた人物を証明方向から描けないということはないでしょうか。
股関節から膝頭までの「距離」を意識するあまりに、それを描こうとしてバランスを崩してしまうことがあります。
しかしながら、どんなに長い「棒」も点と点が重なるようなアングルで覗くと、当然ですが距離は感じられなくなるはずです。
つまり、イスに腰掛けた時の太もも部分の長さも短く見えて不思議はありません。
青色のネクタイの人が飯塚さんですが、微笑むように画面の外にいる角田さんを見つめています。
今回描いた理由でもあるのですが、飯塚さんの角田さんに話す時にこのアゴの角度が「あるある」なんです。
特に東京03のコントを見ていない人にすれば、気にもならない表情なのですが、この表情を見て「フリ」なんだと気づきました。
「フリ」というのは、ストーリーを展開させる演出方法で、あえて先に見せることで印象を深めて、展開後に「嗚呼、なるほど!」と伏線が回収されるためのキッカケです。
実際、東京03のこのコントでも、先輩役の角田さんに見せた「この表情」がフリとなって、後に続く展開がより際立っています。
顔だけではなく、両肩の傾き具合や背骨の斜めっている部分も、結果的ではなく、実際にそんな風に飯塚さんは座っていました。
手足の単純な長さやバランスだけではなく、その人物の人柄が表れていたら、そこまで描けるようになりたいです。
今回もまた東京03の舞台シーンから選んだワンシーンを描きました。
電話で話している角田さんとその相手の黄色いコート姿の後輩との会話に、飯塚さんが少し不満げに見つめている場面です。
実際のシーンではあり得ない構図ですが、舞台ならではの演出で、きっと客席からその関係性がよく伝わったことでしょう。
今回描くにあたり、主人公となる角田さんに一番照明があたり、後輩の方にも光が当たっているのが分かるでしょうか。
一方で、このシーンではサブになる飯塚さんには彼らよりも弱い照明です。
描写の部分では、座面に深く腰掛け、それは先輩らしい風格を表しているのかもしれませんが、角田さんの座り方や両膝頭の突き出し感をしっかりと観察しなければいけません。
また、飯塚さんとの関係では、二人の間にある木製テーブルも存在感を出し過ぎないようにしつつもしっかりと描きたいところです。
後輩の方には、いわゆるマゼンタ色の照明が当たっていて、黄色のコートの衿もとが淡いピンク色に見えます。
さらに最も後ろの濃紺の背景との空気感を含めて、舞台のワンシーンらしさをどこまで描けるのか試してみました。
何か単体を描くというステージ抜けて、今は関係性や全体的な広がりまで描けるようになりたくてそんなシーンを好んで挑戦しています。
今回もまだまだ修正や精度を上げられる課題は残っていますが、概ね描きたい雰囲気にはなっていると思います。
ここの所、描きたいのは「雰囲気」です。
例えば東京03がコントで見せる表情や雰囲気を描くこと。
三人それぞれを似顔絵として寄せて描くのも大切ですが、例えば飯塚さんと豊本さんの立ち方が僅かに違っていて、それは性格や役柄が影響しているはずです。
また、自転車に跨ったまま二人に話し掛ける角田さんのどこか愉しげな雰囲気もまた、三人に関係性を表しています。
さらに言えば、舞台の奥行き感や照明による演出なども、かなり実際とは異なるのですが、手を抜いた割に雰囲気は伝わって欲しいという欲張りな気持ちで描きました。
細かく見てしまうと、かなり粗い描写なのですが、三人の温かな雰囲気が感じ取れるような仕上がりになっていたら嬉しいです。
地面をなる水平線を一本引き、垂直方向に幹を描き、さらに枝葉を加えたとしましょう。
確かピカソだったと記憶していますが、「模写」している内は描き手としてまだまだなんだそうです。
彼曰く「木」という形を習得すると、実際に存在する木々と変わらない描写ができると言います。
つまりそれが意味するのは、りんごでも花でも、人物でも、そこに生きている物としての生命感や躍動感を描き手がどこまでくみ取り、学んだのかということでしょう。
桜の木と松の木、杉や檜の枝ぶりの違いを理解していなければ、正確な描写は不可能ですし、さらに言えば、地域性や気候との関係性を知らないと景色として不自然な配置になってしまいます。
「創造」という描き手の空想も大切ですが、最近何を描けばいいのか悩むことが増えたのも、今の画力でデッサンできるのかという視点ではなく、それをなぜ描くのかという意味で根拠が見つからないからです。
例えば、推しのタレントがいて、その方の似顔絵を描いた時に、他人が誰を描いたのか分かることに意味やモチベーションを感じられません。
それこそ、その風景の音や匂いまで描くような気迫にはならないのです。
「上手く描いたね」という感想を最高点とするなら、目的を持たないままの作画はそこを越えられません。
写真は、レンズの品質を通して、光を受け取り目の前の対象物を再現しています。
感情としてではなく、光学的な扱いとして成立しています。
では我々がそれとは異なるアプローチで、対象物をより深く感じ取ることはできるでしょうか。
レンズでは、音までは再現できません。
音は不可能だとしても、そんな何かを描くことはできるでしょうか。
絵を描く時に心掛けていることは、「見たままを描く」こと。
なのでモチーフを見る時も、下書き段階では水平や垂直に対してどれだけの角度で傾けているのかを見抜くこと。
さらに着色段階では、明度や色相、彩度をRGBに置き換えて、ピンポイントで色味を観察します。
しかしながら、人間の眼は錯覚を起こしやすく、例えば水平も垂直も簡単に間違えてしまいます。
よくあるミスが目の前に広がる景色を全て描こうと思ってしまうような構図になった時。
カメラでいう超広角レンズでやっと撮影できるような構図は、少なくともこみちには追い切れません。
安全なのは、角度では60度くらいまでで、真っ直ぐにモチーフを見て全てが視界に収まる構図であること。
しかし、そのような構図で屋外スケッチする時に困るのが、視力の悪さから来る観察不足問題です。
悪い意味ではなく、化粧をすると顔の骨格さえ見誤ります。
顔の縦横の比率は、髪型でも惑わされますが、意図的に施された顔表面の色味の変化で、凹凸や丸みを間違えます。
上から辿った線と下から起こした線が、想定される位置で交わらず、別の位置どりから再確認しても、さらに交点となるポイントが僅かに合いません。
それは、化粧によって錯覚するからで、丸顔だと思い込んでいたら、面長だったというようなことが女性を描く時に起こります。
また男性と比較して、女性のファッションは骨格を感じさせたりさせなかったりと上手く誤魔化されので、シルエットを追う時でも身長やサイズ感の点で男性とは異なる難しさがあります。
また、男性に比べて、女性の顔はトップライトの色味から比較的暗い部分までの変化が緩やかで、色調の変化がとても繊細です。
その辺りも含めて、画力の乏しいこみち実力ではまだまだ「女性」をしっかりと描くことができません。
ただ最近は東京03の面々を積極的に描いていますが、合間を見て「女性」を描くことにも取り組んでみたいと思っています。
そのためには、苦手な「化粧」以外に、「髪」の描写も不可欠なので、課題がかなり増えます。
ボチボチとマイペースで、今後も取り組めたらと思うので、また描いた際には報告させてもらえたら嬉しいです。
描く時は、何らかのテーマを見つけて、それを達成できるようにモチベーションを上げています。
例えば、今回取り組んだ東京03の人気コント『バンドマン』より、飯塚さんと角田さんのお二人を描かせて頂いたのですが、「似顔絵」という表向きの課題とは別に、「革ジャン」を描くことにも取り組みました。
同じ衣類でも、表面がツルツルした革ジャンは、光を反射しやすく、シワの尖った部分が線となって光って見えます。
つまり、革ジャンを革っぽく描写するには「シワの描写」が必須で、適当にそれっぽく描くことも不可能ではありませんが、正面からしっかりと描こうとするとデッサン力が試される課題です。
また、同じ革ジャンを羽織った二人ですが、より高級感のあるのが右側に立つ飯塚さんのもので、革特有の光具合が少し穏やかでツヤツヤとした革の光沢感が感じられます。
一方で角田さんが羽織る革ジャンは革が硬く、体のシルエットに少し合っていない雰囲気も特徴です。
骨格を想像し、そこに衣類を重ねるように描くことで、衣類の持つ厚みまで描くことができると思います。
この辺りの描写力はまだまだ試行錯誤が必要ですが、描くという意味で、何をどこまで表現するのかの範囲を広げられるような課題は描いていて楽しいと感じます。
「絵」を描く目的や意味を考えると、「スマホ」の存在を意識してしまう。
「スマホ」には「カメラ機能」が付いていて、しかも圧倒的にキレイが映像も画像も手軽に撮影できてしまう。
そんな時代において、アナログ、デジタルを問わず、「手書き」する必要性はどこにあるのだろうか。
例えば「トーレス」や「グリッド法」を用いれば、手書きでもかなり画像に寄せて描くことができる。
しかし、日頃からカメラレンズの焦点距離による違いを知っている方であれば、肉眼でみたモチーフを描いたものか、カメラで撮影した画像を使っているのか、「焦点距離の見え方の違い」からでも識別できるだろう。
だから何?ということではない。
むしろ、スマホであれだけ簡単に、しかも正確で美しく撮影できてしまうのに、長い時間と手間ひま掛ける意味はどこにあるのかということ。
この文章を書いている時、たまたまNHKの日曜日美術館がテレビに映っていて、その内容を片耳で聞いていると子どもたちや美術にあまり関心がない人でも分かりやすく、楽しめる作品があることを紹介していました。
絵を描く目的は、上手いことではなく、それを見ている時間に何か心が動いてくれたかということ。
「ヘェ〜」でも「何だろう?」でもよくて、一瞬でもその作品を見て心が反応してくれたらそれで十分なのでしょう。
見られることもなければ、心が動くこともありませんから。
絵を描く時に感じる分岐点があるとするなら、平面の「紙」に平面の「絵」を描く段階から、「紙」に奥行きを感じて「立体」として描こうとする意識が芽生えた時だろう。
そのためには、トレースして描くことをやめて、しっかりとデッサンを基本から学ぶことだ。
デッサンも毎日描き続ければ、才能のある人なら一年でも相当に上手くなるだろうし、こみちのような凡人でもどうにかここまでくらいなら描けるようになった。
デッサンの重要性は単に正確に描けることだけではなく、例えば右の絵で分かるように、角田さんが座っている周辺に置かれた物の大きさや距離感まで描けるようになることだろう。
空気感というような表現をすることがあるけれど、対象物を正確に描くだけではなく、それがどんな環境の中にあるのかまで再現するには「基礎力」が欠かせない。
個人的には、対象物の形はもとより、重さやサイズ感まで伝えられる表現力はぜひ手に入れたい部分だと思うし、それができるようになるには「描くこと」を改めて見直す必要がある。
まだまだ表現できない場面もあるけれど、少しずつ表現できるシーンが増えて行くのは嬉しい。
角田さんについても、照明の照り返しなどいくつか表現力を欠いている部分がある。
ある意味ではこれをベースに、全体とのバランスを整える行程があると表現力はさらに向上させられるだろう。
また、右側の植物もかなり手を抜いているので、そこの描き込みができると深みが増しそうだ。
以前、漫画家さんが同じ登場人物をいとも簡単に描いているのが凄いと思っていました。
今回、東京03人気コント『ピザ』の中で、個人的に特に気になった表情を3つ選んで描いてみました。
表情としては、突っ込み、無表情、思惑と角田晃広さんの変化を描けてみることにしました。
人物画というと、どうしても真正面のすまし顔を選んでしまうのですが、こみちとしてはいろんな角度から、「表情」を描きたくなります。
個人的な満足度はまだまだですが、例えば一番左側の一枚は、東京03のメンバー飯塚さんに向かって「ちょっと待った!」と声を掛けた場面です。
真っ直ぐに向いて発する言葉ではなく、少しアゴを上げ顔を傾けている辺りがさらにポイ感じを印象づけます。
顔を描く時に、中心軸が斜めにズレていると、どうしても描写がブレてしまいます。
今回は苦手な角度ではありましたが、この角度をあえて描いてみたいと思って挑戦しました。
描ける角度を増やしながら、苦手な描写にも手を出して、段々と画力を高めていきたいです。
今回は、ピザのマルゲリータを描いてみました。
イラストとして描く場合、花や草木は、大まかなバランスが破綻していなければ、それっぽく見えるので、初心者向けにも適したモチーフと言われます。
同様にピザも、少しくらい違って描いたとしても、それだけで全く異なるものになってしまうことはないので、割と取りかかりやすいのではないでしょうか。
主に、黄色からオレンジ、茶色、赤色くらいまでの色相が多く、丸い円形のピザ生地に熱せられたチーズをどこまで再現できるのかが課題です。
チーズを黄色やオレンジ色の一色で塗ってしまうと、急にウソっぽくなるので、光に反射し白く光っている部分や、光がチーズの内部まで照らし、時に淡い緑色に見えたりする部分までを丁寧に観察することが大切だと感じました。
また、リアリティを出す方法として、ピザ生地の厚みや外側の焦げ具合、また木製の皿との接する部分などもよく観察することでしょう。
個人的には、このピザのイラストの完成度は70点くらいだと思っていて、「ピザに見える」と思ってくれたら嬉しいです。
原画と比較すると、位置や色味が異なる部分はまだたくさんあるのですが、デッサンとして描いているのではないし、作品として「ピザ」を表現したかったということでもありません。
「マルゲリータ」というピザがあることに意味があって、そのイメージとして使いたくて手がけたものです。
とは言え、チーズのとろみ感をどこまで雰囲気として描けるのかも気になっていたので、現段階の画力ではこんなレベルだったという基準ができました。
また機会があれば、食品なども描いてみたいと思います。
描いたのは、目の前にあったクリップ。
実はコレ、こみちにとっての原点でもあります。
というのも、こみちにとって「描く」とは、文字を使わない「伝達方法」という位置付けなので、例えば右のクリップを見て大きさとか、色味とか、見たことで何となく伝わる情報があるはずです。
つまり、「上手い絵」とは、その伝えたい情報を適切にコントロールできているもの。
決して「写真そっくり」という基準ではありません。
このクリップは金属製で、緑色の塗装が施されています。
もしもこれが木製で、木を切り出して作ったクリップだったら、描いた時にその違いまで表現することができるでしょうか。
つまり、こみちが思う画力とは、そのわずかな違いを描き分けられる観察力と描画力の高さです。
例えば、画力のある人だと思える基準は、硬くくっきりした物ではなく、雲のように見えているけれどその曖昧さが観察力や描画力がないと再現できない場合です。
光の反射や透け感なども、繊細な描写を必要とするので、それがしっかりと表現できると高いスキルの持ち主だと思います。
一方で、形のはっきりしたものでも、スケール感の描写ができるとそれは評価するポイントになるでしょう。
何も比べるのもが横にないのに、一見してその大きさや重さが感覚的に伝わるようなものです。
石膏のデッサンなどでも、そのものの描写ではなく、周囲に伝わる空気感や空間を再現できていると上手いなぁと感じます。
というのも、モノの形や色は、周囲の影響があってできるので、その描写がないものは情報量の面で損をしています。
つまり、りんごを描いた時に、何となくハイライトを描き加えてしまう癖がつくと、描いたものからリアリティが減って、どこか平凡なものになってしまいます。
どこにでもあるりんごではなく、ここにあったりんごを描くために、何が必要なのか考えて描きたいからです。
みなさんは、どんなことを考えて描いているでしょうか。
自己満足な世界だとしても、あまりに適当過ぎると描いても楽しく感じないのは、描く楽しみがモノとのコミュニケーションにあるからかもしれません。
小峠さんの似顔絵は、実際に描いてみると気づくのですが、「線」で描くだけではなかなか似せられません。
そこで、「面」として形を追う必要があるのですが、それでも思うようには描けなくてかなり苦戦しました。
結局、描けたのは右のような一枚ですが、見ていただくと気づきますが、やっぱり小峠さんっぽさが引き出せていません。
ただ、描くことは楽しいことで、上手く描けないこともいい経験になります。
実際、3年前にも描いたのですが、その時と比べて基本は変わっていませんが、最近取り組んでいるシワの描写などにももう少し上手くなりたいです。
今回はテントの中に隠れようとするシーンを描いてみました。
豊本さんを描くのはもちろんですが、テントの質感なども再現したくて挑戦しました。
またここから加筆する予定ですが、さらにどこまで質を上げることができるでしょうか。
修正や調整したい箇所もまだまだあるので、どこまで丁寧に向き合えるのか。
いつもここからが焦ってしまうので、一歩進めるように作業します。
絵を描くことが好きな人なら、絵を描いて生きて行きたいと思ったことがあるだろう。
こみちもそんな風に思っている。
思いつくのは、デザイナーやイラストレーターなどの職種で、「絵描き」という職業は「芸術家」色が強くて生業にするには難しいと思う。
なぜなのかと言えば、「描いた価値」が簡単に評価されないから。
好きな絵描きさんの個展を見に行ったことがあるけれど、人気のあるその人でさえ、入場料や即売会の販売収益で生きて行くのは大変だと思った。
実際、その絵描きさんは都内で週に何度か絵画教室の講師をされていて、でもそれだって誰にでもできることではない。
今の時代なら、例えばyoutube を上手く活用するという手段もあるけれど、「絵を描いて生きて行きたい」人の中で限られた人だけができることだろう。
一昔前前なら、「絵を描いて生きて行く」なら、デザイナーやイラストレーターの方がずっと裾野は広かった。
デザイナーと言っても、担う仕事は幅広いからだ。
それに、特別な経歴や資格などは必要ないし、タイミングよくどこかのデザイン事務所に入れれば素人からでも「プロ」になれてしまう。
とは言え、現実的にはデザイン事務所に入ることも簡単ではなく、自身の世界観を示す意味でも作品を作る必要があるだろう。
自動車の運転がほぼマニュアル車からオートマ車に移行したように、例えばデッサンができなくても、写真と見分けのつかない絵を作ることができてしまう。
特に最近はAIで絵を描くことができる時代になり、「描く」というスキルで評価がされることが段々と難しくなるだろう。
その点を理解して、「何をどれくらいの質で描けばいいのか?」と改めて考えた時に、正直、今は何を描けば評価されるのかこみちには分からない。
例えば、「似顔絵を描く」ということも、スマホで顔写真を一枚撮れば、写真そっくりなタッチからイラストチックまで、圧倒的な速さで描いてくれるだろう。
つまり、「写真を撮る」ことができれば、その後の作業はもう描いた経験など必要なくなる時代なのだ。
絵を描く人なら経験あると思うけれど、例えば洋服のシワをある程度正確に描くのは中級者くらいでないと思うように描けない。
なぜなら、基礎的なデッサンができないと複数のシワが組み合わさった時にどうしても不自然になってしまうからだ。
とは言え「描くスキル」そのものは難易度が高い技術だとしても、すでにAIはそれを再現するレベルにあって、今さらイラストレーターやデザイナーがどれだけの描写力を持っているのか気になるだろうか。
デザイン事務所のオーナー目線で考えたら、それこそイラストレーターやデザイナーを雇うよりも、プログラマーを雇いAIで画像を作るスキルを求めるだろう。
つまり、「なぜ描くのか?」という部分が重要で、そこに尽きるのかもしれない。
喜怒哀楽を描き分けたくて、人物画も好んで描いています。
そんな流れもあって、今回の一枚は角田さんが温かい笑みを浮かべて帰ろうとする飯塚さんを引き留めた場面です。
まだ下書きにプラスして、顔のおおまかな色付けを始めた段階です。
どこまで理想にちかづけるのかも分かりませんが、ボチボチと時間を見つけては加筆しながら描いています。