今回も東京03です!
舞台に立ちハーモニカを奏でている角田さんを描いています。
今回の制作で課題にしているのは、照明に当たっている様をどこまで再現して描けるのかです。
完成までまだまだ修正したい部分がありますが、大まかに色を乗せたところで、ここから細かな修正をします。
今日は少ししっかりと描いて、明日はどこかのタイミングで動画としてアップしたいです。
舞台に立ちハーモニカを奏でている角田さんを描いています。
今回の制作で課題にしているのは、照明に当たっている様をどこまで再現して描けるのかです。
完成までまだまだ修正したい部分がありますが、大まかに色を乗せたところで、ここから細かな修正をします。
今日は少ししっかりと描いて、明日はどこかのタイミングで動画としてアップしたいです。
絵を描く時に、「形」を追って線を引いてしまいます。
例えば、右側載せたイラストは単なる線ですが、見方によっては何か意味あるものにも見えてきます。
トレース(なぞり書き)をしたことがある人なら、境界線を引いているだけなのにそこに作り出された線の集合体が急にリアル情景に見えて驚いたことがあるでしょう。
また、描く人によって現れる「癖」は作風となり、本当の線ではないけれど、それとは異なる意味を持つものへと変化します。
例えば、その下に載せた線の集合体も、「線」と言ってしまえば線でしかありません。
しかし、何か意味や作為を探してみると、自身の経験から呼び出される記憶があります。
ただ、絵を描く上では、明度差を探して線を引こうと思っても、空に浮かぶ「雲」や衣類の「シワ」を描写するのは困難です。
しかも、不慣れなら描きたい線とは異なる線を引き、集合体として確認してもそれは意図したものとは別ものです。
その意味でも、「線」として対象物を観察してもいいのかという疑問に行き着きます。
例えば、最近の話では「線」として描くのは下書きだけで、その後は「面」として考えていることが増えました。
一番下に掲載した男性二人のイラストで、特に右側の人物の顔を「線」として描くのは手間が掛かります。
理論的には「線」でも「面」でも同じ結果ではありますが、描く手間としては「面」として描く方が感覚的に楽に感じます。
今回は「線」という身近なものから、広がって行く創作の世界観を考えてみました。
人物画を描こうと思った時に、その人の顔立ちに似せたくなります。
また、全身を描くならプロポーションも同じで、実際と近い方が臨場感も生まれます。
「絵」だから無意識に加工しやすいのですが、理想に近づけて描いてしまうとどれも同じような仕上がりになって、描く意味が失われます。
意外と椅子に腰掛けた人物を証明方向から描けないということはないでしょうか。
股関節から膝頭までの「距離」を意識するあまりに、それを描こうとしてバランスを崩してしまうことがあります。
しかしながら、どんなに長い「棒」も点と点が重なるようなアングルで覗くと、当然ですが距離は感じられなくなるはずです。
つまり、イスに腰掛けた時の太もも部分の長さも短く見えて不思議はありません。
青色のネクタイの人が飯塚さんですが、微笑むように画面の外にいる角田さんを見つめています。
今回描いた理由でもあるのですが、飯塚さんの角田さんに話す時にこのアゴの角度が「あるある」なんです。
特に東京03のコントを見ていない人にすれば、気にもならない表情なのですが、この表情を見て「フリ」なんだと気づきました。
「フリ」というのは、ストーリーを展開させる演出方法で、あえて先に見せることで印象を深めて、展開後に「嗚呼、なるほど!」と伏線が回収されるためのキッカケです。
実際、東京03のこのコントでも、先輩役の角田さんに見せた「この表情」がフリとなって、後に続く展開がより際立っています。
顔だけではなく、両肩の傾き具合や背骨の斜めっている部分も、結果的ではなく、実際にそんな風に飯塚さんは座っていました。
手足の単純な長さやバランスだけではなく、その人物の人柄が表れていたら、そこまで描けるようになりたいです。
今回もまた東京03の舞台シーンから選んだワンシーンを描きました。
電話で話している角田さんとその相手の黄色いコート姿の後輩との会話に、飯塚さんが少し不満げに見つめている場面です。
実際のシーンではあり得ない構図ですが、舞台ならではの演出で、きっと客席からその関係性がよく伝わったことでしょう。
今回描くにあたり、主人公となる角田さんに一番照明があたり、後輩の方にも光が当たっているのが分かるでしょうか。
一方で、このシーンではサブになる飯塚さんには彼らよりも弱い照明です。
描写の部分では、座面に深く腰掛け、それは先輩らしい風格を表しているのかもしれませんが、角田さんの座り方や両膝頭の突き出し感をしっかりと観察しなければいけません。
また、飯塚さんとの関係では、二人の間にある木製テーブルも存在感を出し過ぎないようにしつつもしっかりと描きたいところです。
後輩の方には、いわゆるマゼンタ色の照明が当たっていて、黄色のコートの衿もとが淡いピンク色に見えます。
さらに最も後ろの濃紺の背景との空気感を含めて、舞台のワンシーンらしさをどこまで描けるのか試してみました。
何か単体を描くというステージ抜けて、今は関係性や全体的な広がりまで描けるようになりたくてそんなシーンを好んで挑戦しています。
今回もまだまだ修正や精度を上げられる課題は残っていますが、概ね描きたい雰囲気にはなっていると思います。
ここの所、描きたいのは「雰囲気」です。
例えば東京03がコントで見せる表情や雰囲気を描くこと。
三人それぞれを似顔絵として寄せて描くのも大切ですが、例えば飯塚さんと豊本さんの立ち方が僅かに違っていて、それは性格や役柄が影響しているはずです。
また、自転車に跨ったまま二人に話し掛ける角田さんのどこか愉しげな雰囲気もまた、三人に関係性を表しています。
さらに言えば、舞台の奥行き感や照明による演出なども、かなり実際とは異なるのですが、手を抜いた割に雰囲気は伝わって欲しいという欲張りな気持ちで描きました。
細かく見てしまうと、かなり粗い描写なのですが、三人の温かな雰囲気が感じ取れるような仕上がりになっていたら嬉しいです。
地面をなる水平線を一本引き、垂直方向に幹を描き、さらに枝葉を加えたとしましょう。
確かピカソだったと記憶していますが、「模写」している内は描き手としてまだまだなんだそうです。
彼曰く「木」という形を習得すると、実際に存在する木々と変わらない描写ができると言います。
つまりそれが意味するのは、りんごでも花でも、人物でも、そこに生きている物としての生命感や躍動感を描き手がどこまでくみ取り、学んだのかということでしょう。
桜の木と松の木、杉や檜の枝ぶりの違いを理解していなければ、正確な描写は不可能ですし、さらに言えば、地域性や気候との関係性を知らないと景色として不自然な配置になってしまいます。
「創造」という描き手の空想も大切ですが、最近何を描けばいいのか悩むことが増えたのも、今の画力でデッサンできるのかという視点ではなく、それをなぜ描くのかという意味で根拠が見つからないからです。
例えば、推しのタレントがいて、その方の似顔絵を描いた時に、他人が誰を描いたのか分かることに意味やモチベーションを感じられません。
それこそ、その風景の音や匂いまで描くような気迫にはならないのです。
「上手く描いたね」という感想を最高点とするなら、目的を持たないままの作画はそこを越えられません。
写真は、レンズの品質を通して、光を受け取り目の前の対象物を再現しています。
感情としてではなく、光学的な扱いとして成立しています。
では我々がそれとは異なるアプローチで、対象物をより深く感じ取ることはできるでしょうか。
レンズでは、音までは再現できません。
音は不可能だとしても、そんな何かを描くことはできるでしょうか。
絵を描く時に心掛けていることは、「見たままを描く」こと。
なのでモチーフを見る時も、下書き段階では水平や垂直に対してどれだけの角度で傾けているのかを見抜くこと。
さらに着色段階では、明度や色相、彩度をRGBに置き換えて、ピンポイントで色味を観察します。
しかしながら、人間の眼は錯覚を起こしやすく、例えば水平も垂直も簡単に間違えてしまいます。
よくあるミスが目の前に広がる景色を全て描こうと思ってしまうような構図になった時。
カメラでいう超広角レンズでやっと撮影できるような構図は、少なくともこみちには追い切れません。
安全なのは、角度では60度くらいまでで、真っ直ぐにモチーフを見て全てが視界に収まる構図であること。
しかし、そのような構図で屋外スケッチする時に困るのが、視力の悪さから来る観察不足問題です。
悪い意味ではなく、化粧をすると顔の骨格さえ見誤ります。
顔の縦横の比率は、髪型でも惑わされますが、意図的に施された顔表面の色味の変化で、凹凸や丸みを間違えます。
上から辿った線と下から起こした線が、想定される位置で交わらず、別の位置どりから再確認しても、さらに交点となるポイントが僅かに合いません。
それは、化粧によって錯覚するからで、丸顔だと思い込んでいたら、面長だったというようなことが女性を描く時に起こります。
また男性と比較して、女性のファッションは骨格を感じさせたりさせなかったりと上手く誤魔化されので、シルエットを追う時でも身長やサイズ感の点で男性とは異なる難しさがあります。
また、男性に比べて、女性の顔はトップライトの色味から比較的暗い部分までの変化が緩やかで、色調の変化がとても繊細です。
その辺りも含めて、画力の乏しいこみち実力ではまだまだ「女性」をしっかりと描くことができません。
ただ最近は東京03の面々を積極的に描いていますが、合間を見て「女性」を描くことにも取り組んでみたいと思っています。
そのためには、苦手な「化粧」以外に、「髪」の描写も不可欠なので、課題がかなり増えます。
ボチボチとマイペースで、今後も取り組めたらと思うので、また描いた際には報告させてもらえたら嬉しいです。
描く時は、何らかのテーマを見つけて、それを達成できるようにモチベーションを上げています。
例えば、今回取り組んだ東京03の人気コント『バンドマン』より、飯塚さんと角田さんのお二人を描かせて頂いたのですが、「似顔絵」という表向きの課題とは別に、「革ジャン」を描くことにも取り組みました。
同じ衣類でも、表面がツルツルした革ジャンは、光を反射しやすく、シワの尖った部分が線となって光って見えます。
つまり、革ジャンを革っぽく描写するには「シワの描写」が必須で、適当にそれっぽく描くことも不可能ではありませんが、正面からしっかりと描こうとするとデッサン力が試される課題です。
また、同じ革ジャンを羽織った二人ですが、より高級感のあるのが右側に立つ飯塚さんのもので、革特有の光具合が少し穏やかでツヤツヤとした革の光沢感が感じられます。
一方で角田さんが羽織る革ジャンは革が硬く、体のシルエットに少し合っていない雰囲気も特徴です。
骨格を想像し、そこに衣類を重ねるように描くことで、衣類の持つ厚みまで描くことができると思います。
この辺りの描写力はまだまだ試行錯誤が必要ですが、描くという意味で、何をどこまで表現するのかの範囲を広げられるような課題は描いていて楽しいと感じます。
「絵」を描く目的や意味を考えると、「スマホ」の存在を意識してしまう。
「スマホ」には「カメラ機能」が付いていて、しかも圧倒的にキレイが映像も画像も手軽に撮影できてしまう。
そんな時代において、アナログ、デジタルを問わず、「手書き」する必要性はどこにあるのだろうか。
例えば「トーレス」や「グリッド法」を用いれば、手書きでもかなり画像に寄せて描くことができる。
しかし、日頃からカメラレンズの焦点距離による違いを知っている方であれば、肉眼でみたモチーフを描いたものか、カメラで撮影した画像を使っているのか、「焦点距離の見え方の違い」からでも識別できるだろう。
だから何?ということではない。
むしろ、スマホであれだけ簡単に、しかも正確で美しく撮影できてしまうのに、長い時間と手間ひま掛ける意味はどこにあるのかということ。
この文章を書いている時、たまたまNHKの日曜日美術館がテレビに映っていて、その内容を片耳で聞いていると子どもたちや美術にあまり関心がない人でも分かりやすく、楽しめる作品があることを紹介していました。
絵を描く目的は、上手いことではなく、それを見ている時間に何か心が動いてくれたかということ。
「ヘェ〜」でも「何だろう?」でもよくて、一瞬でもその作品を見て心が反応してくれたらそれで十分なのでしょう。
見られることもなければ、心が動くこともありませんから。
絵を描く時に感じる分岐点があるとするなら、平面の「紙」に平面の「絵」を描く段階から、「紙」に奥行きを感じて「立体」として描こうとする意識が芽生えた時だろう。
そのためには、トレースして描くことをやめて、しっかりとデッサンを基本から学ぶことだ。
デッサンも毎日描き続ければ、才能のある人なら一年でも相当に上手くなるだろうし、こみちのような凡人でもどうにかここまでくらいなら描けるようになった。
デッサンの重要性は単に正確に描けることだけではなく、例えば右の絵で分かるように、角田さんが座っている周辺に置かれた物の大きさや距離感まで描けるようになることだろう。
空気感というような表現をすることがあるけれど、対象物を正確に描くだけではなく、それがどんな環境の中にあるのかまで再現するには「基礎力」が欠かせない。
個人的には、対象物の形はもとより、重さやサイズ感まで伝えられる表現力はぜひ手に入れたい部分だと思うし、それができるようになるには「描くこと」を改めて見直す必要がある。
まだまだ表現できない場面もあるけれど、少しずつ表現できるシーンが増えて行くのは嬉しい。
角田さんについても、照明の照り返しなどいくつか表現力を欠いている部分がある。
ある意味ではこれをベースに、全体とのバランスを整える行程があると表現力はさらに向上させられるだろう。
また、右側の植物もかなり手を抜いているので、そこの描き込みができると深みが増しそうだ。
以前、漫画家さんが同じ登場人物をいとも簡単に描いているのが凄いと思っていました。
今回、東京03人気コント『ピザ』の中で、個人的に特に気になった表情を3つ選んで描いてみました。
表情としては、突っ込み、無表情、思惑と角田晃広さんの変化を描けてみることにしました。
人物画というと、どうしても真正面のすまし顔を選んでしまうのですが、こみちとしてはいろんな角度から、「表情」を描きたくなります。
個人的な満足度はまだまだですが、例えば一番左側の一枚は、東京03のメンバー飯塚さんに向かって「ちょっと待った!」と声を掛けた場面です。
真っ直ぐに向いて発する言葉ではなく、少しアゴを上げ顔を傾けている辺りがさらにポイ感じを印象づけます。
顔を描く時に、中心軸が斜めにズレていると、どうしても描写がブレてしまいます。
今回は苦手な角度ではありましたが、この角度をあえて描いてみたいと思って挑戦しました。
描ける角度を増やしながら、苦手な描写にも手を出して、段々と画力を高めていきたいです。
今回は、ピザのマルゲリータを描いてみました。
イラストとして描く場合、花や草木は、大まかなバランスが破綻していなければ、それっぽく見えるので、初心者向けにも適したモチーフと言われます。
同様にピザも、少しくらい違って描いたとしても、それだけで全く異なるものになってしまうことはないので、割と取りかかりやすいのではないでしょうか。
主に、黄色からオレンジ、茶色、赤色くらいまでの色相が多く、丸い円形のピザ生地に熱せられたチーズをどこまで再現できるのかが課題です。
チーズを黄色やオレンジ色の一色で塗ってしまうと、急にウソっぽくなるので、光に反射し白く光っている部分や、光がチーズの内部まで照らし、時に淡い緑色に見えたりする部分までを丁寧に観察することが大切だと感じました。
また、リアリティを出す方法として、ピザ生地の厚みや外側の焦げ具合、また木製の皿との接する部分などもよく観察することでしょう。
個人的には、このピザのイラストの完成度は70点くらいだと思っていて、「ピザに見える」と思ってくれたら嬉しいです。
原画と比較すると、位置や色味が異なる部分はまだたくさんあるのですが、デッサンとして描いているのではないし、作品として「ピザ」を表現したかったということでもありません。
「マルゲリータ」というピザがあることに意味があって、そのイメージとして使いたくて手がけたものです。
とは言え、チーズのとろみ感をどこまで雰囲気として描けるのかも気になっていたので、現段階の画力ではこんなレベルだったという基準ができました。
また機会があれば、食品なども描いてみたいと思います。
描いたのは、目の前にあったクリップ。
実はコレ、こみちにとっての原点でもあります。
というのも、こみちにとって「描く」とは、文字を使わない「伝達方法」という位置付けなので、例えば右のクリップを見て大きさとか、色味とか、見たことで何となく伝わる情報があるはずです。
つまり、「上手い絵」とは、その伝えたい情報を適切にコントロールできているもの。
決して「写真そっくり」という基準ではありません。
このクリップは金属製で、緑色の塗装が施されています。
もしもこれが木製で、木を切り出して作ったクリップだったら、描いた時にその違いまで表現することができるでしょうか。
つまり、こみちが思う画力とは、そのわずかな違いを描き分けられる観察力と描画力の高さです。
例えば、画力のある人だと思える基準は、硬くくっきりした物ではなく、雲のように見えているけれどその曖昧さが観察力や描画力がないと再現できない場合です。
光の反射や透け感なども、繊細な描写を必要とするので、それがしっかりと表現できると高いスキルの持ち主だと思います。
一方で、形のはっきりしたものでも、スケール感の描写ができるとそれは評価するポイントになるでしょう。
何も比べるのもが横にないのに、一見してその大きさや重さが感覚的に伝わるようなものです。
石膏のデッサンなどでも、そのものの描写ではなく、周囲に伝わる空気感や空間を再現できていると上手いなぁと感じます。
というのも、モノの形や色は、周囲の影響があってできるので、その描写がないものは情報量の面で損をしています。
つまり、りんごを描いた時に、何となくハイライトを描き加えてしまう癖がつくと、描いたものからリアリティが減って、どこか平凡なものになってしまいます。
どこにでもあるりんごではなく、ここにあったりんごを描くために、何が必要なのか考えて描きたいからです。
みなさんは、どんなことを考えて描いているでしょうか。
自己満足な世界だとしても、あまりに適当過ぎると描いても楽しく感じないのは、描く楽しみがモノとのコミュニケーションにあるからかもしれません。
小峠さんの似顔絵は、実際に描いてみると気づくのですが、「線」で描くだけではなかなか似せられません。
そこで、「面」として形を追う必要があるのですが、それでも思うようには描けなくてかなり苦戦しました。
結局、描けたのは右のような一枚ですが、見ていただくと気づきますが、やっぱり小峠さんっぽさが引き出せていません。
ただ、描くことは楽しいことで、上手く描けないこともいい経験になります。
実際、3年前にも描いたのですが、その時と比べて基本は変わっていませんが、最近取り組んでいるシワの描写などにももう少し上手くなりたいです。
今回はテントの中に隠れようとするシーンを描いてみました。
豊本さんを描くのはもちろんですが、テントの質感なども再現したくて挑戦しました。
またここから加筆する予定ですが、さらにどこまで質を上げることができるでしょうか。
修正や調整したい箇所もまだまだあるので、どこまで丁寧に向き合えるのか。
いつもここからが焦ってしまうので、一歩進めるように作業します。
絵を描くことが好きな人なら、絵を描いて生きて行きたいと思ったことがあるだろう。
こみちもそんな風に思っている。
思いつくのは、デザイナーやイラストレーターなどの職種で、「絵描き」という職業は「芸術家」色が強くて生業にするには難しいと思う。
なぜなのかと言えば、「描いた価値」が簡単に評価されないから。
好きな絵描きさんの個展を見に行ったことがあるけれど、人気のあるその人でさえ、入場料や即売会の販売収益で生きて行くのは大変だと思った。
実際、その絵描きさんは都内で週に何度か絵画教室の講師をされていて、でもそれだって誰にでもできることではない。
今の時代なら、例えばyoutube を上手く活用するという手段もあるけれど、「絵を描いて生きて行きたい」人の中で限られた人だけができることだろう。
一昔前前なら、「絵を描いて生きて行く」なら、デザイナーやイラストレーターの方がずっと裾野は広かった。
デザイナーと言っても、担う仕事は幅広いからだ。
それに、特別な経歴や資格などは必要ないし、タイミングよくどこかのデザイン事務所に入れれば素人からでも「プロ」になれてしまう。
とは言え、現実的にはデザイン事務所に入ることも簡単ではなく、自身の世界観を示す意味でも作品を作る必要があるだろう。
自動車の運転がほぼマニュアル車からオートマ車に移行したように、例えばデッサンができなくても、写真と見分けのつかない絵を作ることができてしまう。
特に最近はAIで絵を描くことができる時代になり、「描く」というスキルで評価がされることが段々と難しくなるだろう。
その点を理解して、「何をどれくらいの質で描けばいいのか?」と改めて考えた時に、正直、今は何を描けば評価されるのかこみちには分からない。
例えば、「似顔絵を描く」ということも、スマホで顔写真を一枚撮れば、写真そっくりなタッチからイラストチックまで、圧倒的な速さで描いてくれるだろう。
つまり、「写真を撮る」ことができれば、その後の作業はもう描いた経験など必要なくなる時代なのだ。
絵を描く人なら経験あると思うけれど、例えば洋服のシワをある程度正確に描くのは中級者くらいでないと思うように描けない。
なぜなら、基礎的なデッサンができないと複数のシワが組み合わさった時にどうしても不自然になってしまうからだ。
とは言え「描くスキル」そのものは難易度が高い技術だとしても、すでにAIはそれを再現するレベルにあって、今さらイラストレーターやデザイナーがどれだけの描写力を持っているのか気になるだろうか。
デザイン事務所のオーナー目線で考えたら、それこそイラストレーターやデザイナーを雇うよりも、プログラマーを雇いAIで画像を作るスキルを求めるだろう。
つまり、「なぜ描くのか?」という部分が重要で、そこに尽きるのかもしれない。
喜怒哀楽を描き分けたくて、人物画も好んで描いています。
そんな流れもあって、今回の一枚は角田さんが温かい笑みを浮かべて帰ろうとする飯塚さんを引き留めた場面です。
まだ下書きにプラスして、顔のおおまかな色付けを始めた段階です。
どこまで理想にちかづけるのかも分かりませんが、ボチボチと時間を見つけては加筆しながら描いています。
見えたままを描くようになって、例えばポイントとなる範囲が確認できないような構図でも挑戦できるようになりました。
描いた後でトリミングするような時はいいのですが、描きたいモチーフの全体像が確認できない時の制作は苦労していました。
今回も足が切れていて、しかも横向きになっているので、あまり描いていない構図です。
描けるなかぁと心配でしたが、どうにかここまで完成させることができました。
誰が言ったのか覚えていませんが、例えば「りんごがある」として、そう言った人と言われた人がイメージする「りんご」は完全に一致することはありません。
「絵に描いたりんご」を指差し、「このりんご」と言えば、目の前に見える物体を共通で認識できます。
とは言え、最近思うのは、「視覚化の限界」です。
もう少し具体的に言えば、「見えている瞬間」が全てとは限らないことに着目してしまうからです。
先の「りんご」で言えば、確かにそこに描かれた「りんご」を見ている訳ですが、例えば補足情報として「青森県産の」とか「昨日買って来た」のような背景を知っていると無意識のうちに先入観が生まれてしまいます。
さらに言えば、デジタルアートなのか、油絵なのか、画材は何を使って誰がいつどこで描いたのか。
「絵は絵」という認識なら、本来補足情報は役立つません。
しかし、「より深く理解する」という時に、我々はそこには描かれていないことも関連づけたりもします。
そんな行為を否定している訳ではなく、でも肯定している訳でもありません。
ただ「視覚化」と言っても、そこにはコントロールすることができない「限界」があると思います。
表題の「ピカソの偉さ」も、まず「偉い」とは何か定義しなければyes ともnoとも言えないでしょう。
そして、厄介なのはその定義で、例えば日常生活で特に美術に興味がない人にとっては、ピカソさえも名前くらい知っている有名人でしょうし、美術が好きな人でも憧れや尊敬ではなく「偉い」という言葉がしっくり来るのかは疑問です。
「偉い」とは、人ができないようなことをできてしまう人なのか…。
例えば、100mを誰よりも速く走った人は、偉い人なのでしょうか。
仮に偉い人だとして、次のレースでその人に勝利した人が現れたら、もっと偉いことになるのでしょうか。
こみち自身も絵を描くことは大好きですが、それ以外は特に続けて来たこともなく、唯一続いていることに過ぎません。
今もしも「なぜ描くのか?」と自問自答しても「それしかできないから」としか答えられません。
こみちにとって、ピカソがどんなに素晴らしい人なのか、本当のことはよくわかりません。
ただ、現時点でピカソの描いた作品を見て、「どんな絵を描いたのか?」よりも「なぜ描いたのか?」という部分に興味があります。
それはつまり、例えば今こみちが「りんご」をモチーフとして描こうと思えるのかというと、描きたいとは思いません。
理由は単純で、そこに描こうと思う動機が浮かばないからです。
それはつまり、風景画を描く時にも悩むのですが、今の画力を試したくてちょっと手強い構図に挑戦する時に感じるワクワク感も、回数を重ねて行くと描く前から完成度が分かってしまい描いても楽しくないのです。
ある意味で「りんご」を描くのはそれに近いと思います。
ピカソがあるタイミングで肖像画を描いた。
それが写真で撮影したようにリアルでも、単純に下手だったとしても、こみちには驚くことではなくて、絵を見て思うのは「なぜ、この絵だったのか?」ということ。
多分、写真と見間違える技術で描ける人は、時間さえあればも何枚でもそのレベルで描けるでしょう。
でも描く側からすると、描く前から予測ができてしまう構図は、「絵を描く」という作業ではなく、「単純な流れ作業」になってしまいます。
ただ、少しマニアックなことを言えば、撮影するカメラによっても、使うフィルムやレンズによっても写真の写り方や色味は微妙に変化し、「写真っぽい」という曖昧さでは語ることができません。
その僅かな差を絵で描き分けることに意味があるのかは別の話かもしれませんが、描き手からすると今の画力ではちょっと厳しいくらいの加減が描く楽しさになっています。
つまり、ピカソがそのタイミングで、どうしてその「絵」を描いたのかが気になるのは、冒頭で触れた視覚化の限界さえも超越したのか、超えられなかったとしたらどこまでそれに迫ったのかには興味があります。
映像による表現方法やマンガのような手法から生み出せる世界観とはまた異なる次元にいるので、「絵などなくても別の何かがあればいい」ということではないと思います。
人は無意識のうちに、感触を会得します。
いつも触れている物なら目をつぶっていてもその形状や質感が分かることに似ています。
つまり、ある絵を見て鳥肌が立つような感動を覚えるのは、潜在意識の中に感覚として呼び起こされるものがあったからでしょう。
なので、何も潜在意識にない人には、どんな絵を見ても特に感動することも起こらないと思うのです。
それは小説を読み返した時に、以前とは別の視点からストーリーを追ってしまうのに似ていて、人生経験やその時の感情によって、見え方が変わったりすることに似ています。
どれだけ多く人の心を響かせられたのか。その人数の多さが絵としての価値なのかも検討しなければいけません。
つまり、誰もが経験することに近い感覚ほど、感動する可能性が高くなるからです。
しかし、ある特殊な経験によってしか感じられない感覚も、蔑ろにするべきではありません。
多くの人にはよくわからない絵だったとしても、あるタイミングでその描かれた意味や思いに感情が揺さぶられるかもしれないからです。
画像として知っている絵も、実際に見るとサイズ感や画材の粗さなど、描いた人の感覚が全く異なって伝わったりします。
絵を図形として見ている時と、立体視した時では見え方感じ方が異なります。
ピカソが凄いかどうかは分かりませんが、彼が生きた時代や文化、生活様式を知らないと作品を描こうとした動機も分かりません。
ただ、全く同じモチーフを一見すると同じに見えても、横に並べて比べてみると違って感じることはあります。
目で見えた視覚化された情報以外に、我々も無意識に何かを感じとっているからでしょう。
それは歌の上手さでもそれは起こります。
上手い人の歌を聴き、素直に上手いと思う。
でも別の人が歌ったら、なぜか感情が揺さぶられて涙してしまった。
この違いってどこにあるのでしょうか。
アートの不思議さは、言葉にしづらいから難しいです。
それに、今はそう思っていても明日には別の気持ちになっているかもしれません。
主役が偉いのか、脇役が偉いのか。
その答えはいろいろあっていいはずです。
キャンプ場にスーツ姿で現れた豊本さん。
社長の角田さんがいなくなって、飯塚さんにお願いをする。
しかも、その迫り方がちょっと怖い。
そんな場面で見せた豊本さんのワンシーンを描いてみました。
下書きから全体的に着色を済ませた段階ですが、ここからさらに描き込みたいと思っています。
青く見えるのはテントで、この後、そこに豊本さんは身を隠します。
鬼気迫り雰囲気が伝わるように頑張ります。
東京03のコントが好きで、よくお気に入りのシーンを描かせてもらっています。
今回は「因を探して」というコントのワンシーンです。
豊本さんの表情が印象的で、その顔を見て笑う飯塚さんがまだ気づいていない角田さんにも見せるという場面。
東京03のお三方は演技力もあって、コントというかドラマを観ているような感覚になるのですが、一瞬、豊本さんが笑いそうになって、それがまた上手いからこそ観ている側は可笑しくて、個人的にもお気に入りなんです。
デッサンとしては、形が狂っている部分もたくさんありますが、下書きからフリーハンドで描くのも、完コピしたいわけではなくて、雰囲気を描きたいと思っているからです。
絶対に表現したいのは、豊本さんの表情と飯塚さんの表情。
さらにウインドブレーカーとスーツの質感の違い。
光の当たり具合ももう少し上手になれば、さらに臨場感が伝えられたかもしれません。
新たに公開された東京03の人気コント『因をさがして』より、このシーン。
まだ制作途中で、ちょうど飯塚さんが羽織っているウインドブレーカーの陰影を描き始めたところです。
衣類のシワは、グラデーションが多くて描くのが大変ですが、質感や雰囲気をしっかりと表現するためには避けられない部分。
苦戦しながらも、少しずつ描いていこうと思います。
完成したら、youtube チャンネルにアップする予定です。
誤魔化してしまうこともできますが、逃げないで向き合うことで画力を上げたいと思っています。
今回選んだシーンは、顔のドアップ。
画力を試すには絶好の一枚ですが、他に描くものが無いだけに逃げ場もない。
まだ制作途中ですが、描き進めて行くとまだ到達できていないレベルが求められる。
だから、とりあえずここまで描いたものの、この後にどこまで精度を上げられるか、楽しみもありながらプレッシャーでもある。
構図でコントシーンを再現するのではなく、演者の表情や仕草を描くことで伝えられるようになりたいと思っています。
「誰を描いているのか?」ではなく、「何をどう感じている場面なのか?」を伝えられるような画力を模索しています。
まだ、全体の色づけも終わっていませんが、少しずつ手直ししながら表現方法を見つけているところです。
どこまで狙い通りに仕上がるのか分かりませんが、存在感や空気感も大切にしながら、今まででのこみちでは描けなかった描写力を目指しています。
東京03のコントシーンから、印象的なシーンや描き手から興味のある場面などを見つけて、ボチボチと描いています。
今回は「ドキュメンタリー番組」というコントのワンシーンで、飯塚さんを描いてみたもの。
いわゆるトレースで下絵を描いていないので、右のように色をある程度載せてから、段々と修正して描き進めます。
まだ飯塚さんっぽい感じにはなっていないのですが、ここから違いを見直して描いて行くことが楽しいので、どうしても完成するまでに時間も掛かります。
完成したら、またyoutube にもアップしたいと思っています。
東京03の人気コント『ドキュメンタリー番組』と言えば、「器の色」が名言ですが、そのシーンに絡むワンシーンより、今回は豊本さんの表情にピックアップして描いてみました。
まだ、顔の雰囲気ができたところで、これから割烹着を描いたり、もう少し全体的に精度を上げられたらと思っています。
完成したらyoutube にアップすると思うので、よかったらまたお立ち寄りください。
どうにかここまで描きました。
ここからどれだけ描き込めるのかが課題です。
表情の8割。全体的に3割。
まだ背景とスーツなどが手つかずのまま。
鞄も柄を描くのが大変なので、かなり省略して雰囲気だけにしました。
それでも、まだまだ時間が掛かりそうです。
明日くらいにyoutube にアップできたらと思っていますが、どうなるでしょうか。
現時点での進行具合はこんな感じ。
まだ顔を中心に色が乗っただけ。
ここから注意して描いて行くのですが、とにかく描くのが遅いので、行ったり来たりしながら楽しんでいます。
まだまだ印象がガラッと変化すると思いますが、下絵から着色したという所です。
今回のワンシーンは状況を知って困惑した角田さんを描きました。
『許可』は、センスのいい飯塚さんの持ち物に憧れる角田さんが、やっとの思いで「許可」を得て、念願だったカバンを買えたという話。
ところが、豊本さんも同じカバンを持っていて、「無許可」だと角田さんは詰め寄ります。
しかし、豊本さんは全く動じない様子で、逆に角田さんの方が戸惑ってしまうという話です。
「何で?」
そんな雰囲気を描きたくて、このワンシーンを描写してみました。
まず、角田さんの表情をどこまでしっかりと表現できるのかにこだわりました。
描いている40%くらいの時間は、「顔」です。
そして、羽織っているジャケットやシャツのシワ。
少しお腹が膨らんでいるのか、その辺りも影のつき方で描写しています。
シャツに関しては、もう少し時間を掛けるとさらに品質が上がると思いましたが、今回はこの辺までで落ち着きました。
東京03の人気コント『許可』。
センスのいい飯塚さんの持ち物は、同僚の角田さんも注目している。
そしてやっと「許可」をもらい買った同じサイズの同じ色のカバン。
しばらくして現れた豊本さん。
彼が提げているのは…。
ちょうどそんな展開で角田さんが見せるワンシーンです。
まだ、ほとんど描けていない顔ですがまだまだ手直し中です。
今回のシーンは、後から現れた角田さんに気づき、まだ心に整理がつかないまま軽く微笑む飯塚さんを描いています。
まだ、軽く顔全体に色が乗ったところですが、これから少しずつ描き込んでいこうと思います。
今回の「許可」は、東京03の公式チャンネルに新たに公開されたコントです。
その雰囲気をどこまで再現できるのか、今の画力で挑戦してみます。
コント終盤、角田さんが被っていた帽子を被り、どこか笑いを誘う表情の豊本さんを描いてみました。
掲載したものは、まだまだ製作の途中で、全体的に色が乗ったというところ。
どこまで時間を掛けて再現するのかできるのかが問題ですが、これからもう少し描き込んでいきたいと思っています。
相変わらず、描くのが遅く、ボチボチの製作ですが、またyoutube にも掲載したいと思っています。
近いうちにアップしたいです。
今回描いた一枚は、こんな感じに仕上がりました。
意識して取り組んだのは、肌の厚みです。
例えば唇を線として描くのではなく、唇の分厚さをしっかりと描くことで、表現に深みを持たせたいと思いました。
一方で、ジャケットのシワは、基本的な描き方で省略し、もう少し時間を掛けて描くことで2段階は詳細に表現できると思います。
まだまだ描くのが遅いので、全部に力を注ぐことが難しいこともあって、ポイントを絞って少しずつ上達できるように取り組んでみました。
短い時なら15分くらいの隙間時間に、ちょっとずつ描いています。
まだ制作途中ですが、ここからどんどん描き込んでいこうと思っています。
それこそ編み物とか、読書をするような感覚で、絵を描く時は集中している時もあれば、ラジオやテレビ、youtube を見たり聴いたりしながら、同時にすることが多いです。
頭の中を空っぽにして、手だけ動かしている感覚が心地いいです。
ただ、今回のイラストはもう少ししっかりと描きたくて、いつも描く時に使う色数が24だとしたら、その倍や3倍くらいで描きたいなと思います。
今年も自由気ままに描かさせて頂きました。
まだまだ拙いですが、懲りずに覗いてくださったみなさん、本当にありがとうございます。
来年も特に抱負のようなものはありませんが、今年同様に細々と気ままに描いていけたらと思います。
最後の一枚も東京03のワンシーンから選びました。
ではでは、今年も残り少なくなりましたが、大晦日まで楽しみましょう。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
相変わらず、描くのが遅いこみちです。
その原因は、迷いがあるからです。
最近、右のようなイラストをyoutube にアップすると、温かいコメントをもらうことが増えました。
よく描けた時は高評価も増えますし、もう一歩という時は高評価も頭打ちです。
低評価をつけられることもありますが、ある意味でわざわざ関わってくれて、教えてくれたのですから次に活かそうと思います。
少し前、これだけ誰もがスマホを持ち歩き、高画質で鮮明に撮影できる時代になって、絵を描く意味を考えたりしますが、描く楽しさという意味では苦労して描く中で、発見することがあるから楽しいと感じます。
例えば、似顔絵を描く時に、ある一本の線があるとないで全く違うことがあります。
つまりその一本が究極の線で、それ無しには成立しないという大切なものです。
例えば、絵を普段全く描かない人が、トレースして描いたとしても、その線をぜんたに眺めるといい感じで対象物を感じられます。
なぜなら、トレースはすでに撮影されたものを使うので、既に意味を持った物体になっていて、それを無意識でもなぞることで、形を呼び起こせます。
しかし、デッサンになってしまうと、経験が少ない人では急に存在感が消えてしまい、さっきまであった雰囲気が失われます。
例えば、絵が好きで描いていても、誰か別の人が描いた作品を見て、ハッと気づくことがあります。
同じように描いているのに、自身が描いた時には感じなかったのに、誰かの作品では感じることができる不思議が感覚がそれこそ究極の線だと思います。
ある意味で宿るようなもので、すぐにその洗礼を受けられる人もいれば、長く描き続けることで身につける人もいます。
一方で、好きで描いているのに、一向に上手くならないという人もいて、究極の線に出会えることがとて有り難く、でも毎回遭遇できるとは限りません。
癖が強くと言ってしまえばそうなのですが、究極の線に出会えることが楽しくて、またそんな出会いの良さを多くの人に感じてもらうために、どんな方法があるのかとも考えたりします。
何をどう描くことが、描くことの楽しさなのかといろいろ考えてみるのですが、当たり前に思い過ぎることも多くなって、実は大切にするべきだというポイントを見失ってしまっているのかもしれません。
単体の人物を描く時に比べ、複数人になるとそれぞれのボリューム感を整えなければいけません。
加えて、構図的に重なる場面では、特に距離感をしっかりと描かなければ不思議になってしまいます。
これまでにも東京03の似顔絵でも複数人を描くことはありましたが、重なる構図を選ぶのは初めてではないかと思います。
場面としては後ろに立つ角田さんが、耳元で「やってんねぇ」と囁き、その言葉に耳を傾けている飯塚さんの表情を描きこともテーマでした。
ヒソヒソと周囲に聞こえないように囁く雰囲気がどこまで描き切れたのか。
シャツのシワを含めて、まだまだ苦手な課題はたくさんありますが、絵を描くことはとても楽しくてやりがいがあります。
絵を描くことが好きなこみちですが、描いている途中で満足してしまいます。
しかし、後で見返した時に思うのは「もう少しやり切っておけば良かった」ということ。
この辺りは描くのが遅いことも理由ですが、なかなか直せない癖です。
今回は先にこのブログにて制作途中をアップしてみましたが、ここからどれだけ自身が納得できるまで取り組めるのかが課題です。
今日中は難しいかもしれませんが、明日くらいまでには「ゴール」に到着したいです。
正しい線を引けば、結果的に描きたい物が描けるようになる。
こみちは絵以外にもランニングが趣味で、2つは似たような感覚がある。
「走る」ようになったのは、約1年前から。
運動不足解消というよりは、気分転換が大きな理由だった。
あの頃、いろんな面で上手く行かなくて、気持ち的に行き詰まっていた。
笑えなかったし、楽しめなかった。
「流れ」を作ることができればいいけれど、何も感じなければいいけれど、そんな風にもならないから、前にも後ろにも行くことができなかった。
上手いとか、下手とかではなく、単純にこみちにとって「絵を描くこと」が振り返った時に残ったもので、絵を描くことだけは嫌いになりたくなった。
右上の絵は、東京03のコントシーンを描いたもの。
以前からよくモチーフとして描いているけれど、最近は少し画力が試される構図に挑戦している。
顔のアップを基本としたシンプルな構図。
実際に描いてみると、表情や仕草がしっかりと描く必要がある。
こみちは、正面からの顔を描くことが好きではなくて、理由はシンプルに「その構図の良さを活かしきれない」から。
奥行き感のない絵は、とても狭い世界に見えてしまう。
まだ、こみちは自分の描いた絵を作品とは思っていなくて、「図」に近い。
以前にも紹介したように思うけれど、文字で伝える情報とは異なるアプローチで「絵」を使っている。
だから、スケール感や重量感、色味や空気感のような「雰囲気」を描くことはとても大切だと思っていて、言えばそこ場面を自身のフィルターに通して描くことも心掛けている。
こみちがこれまでに何枚も描く中で、癖というかタッチというか、描いたものの中にこみちらしいテイストが生まれて、「こみちっぽい絵」になることで伝えられるものがあると思う。
そのためにも、よりシンプルな構図をしっかりと描くことが大切で、ここ最近はそのことを意識して絵を描くようにしている。
ランニングを全くされない人には、具体的なイメージが浮かばないかもしれないが、最初は誰だって300mだって走ることができない。
でも、「走る」という動きをいくつかの視点や動きに分解すると、それぞれの意味やポイントが見えてくる。
つまり、できない理由や原因があるからこその結果で、逆を言えばそれらが全くないのであれば、結果的に現状は今に留まっていなくて次のステージへと向かっているだろう。
上手くいかないことって、やっぱり理由があって、その原因を解消しないとずっと変わらないままだ。
絵は、自分でコントロールできるし、苦手を克服すれば段々と思うようになってくる。
絵を描くことしかできない理由はそこにあって、もしも描くことを取り上げられたらこみちには何も残らないように思えてしまう。
今回選んだワンシーンは、振り返った豊本さんの少し驚いた表情。
目鼻口のバランスがなかなか掴めずに、苦労しました。
似顔絵というよりも、今回はしっかりと表情を描いて行こうと思って挑戦した回になります。
一瞬を表情なので、時に普段の見慣れた顔立ちと異なることもあって、知っている「豊本さん」との違いがあまりに大きいと、描いていても迷ったり、自己修正が入ってしまったりします。
今回はボーダー柄の上着はササっと軽く印影を付けただけで描きました。
まだまだ特長を掴みきれていませんが、そんな焦ったさも含めて、描くのってやはり楽しい作業です。
「見たままの情景を描きたい!」という気持ちは、絵を描くことが好きな人であれば、誰もが持っているのではないだろうか。
東京03人気コント『部長のいい話』は、部長役の角田さんがかつての部下である飯塚さんや豊本さんに「いい話」をするネタだ。
「自分一人では何もできない。だから、他人を受け入れる心を持つこと」
そんな感じの「いい話」を今は部下を持つ立場になった彼らに伝える。
でも、お酒も飲んでいたらトイレにも行きたくなるもの。
いい話の直後に彼らは連れ立って席を立ち、角田さんは一人ぼっちになってしまう。
「いい話をした自負がある」
感想や余韻が欲しいタイミングで一人にされると、余計にもの寂しさが強くなってしまう。
描いたのは、そんな場面を迎えた時の角田さんだ。
背中の曲がり具合。
不満気な口元。
身長が多分、170センチから175センチくらいの角田さんだから、そのスケール感も極端過ぎてはいけない。
なぜなら、プロポーションを整え過ぎると、急にリアリティが失われ、例えば今回の描きたい「孤独感」や「もの寂しさ」が薄れてしまう。
「場の雰囲気」をどこまで描けるのかが最近のテーマだから、できる限り感じた印象そのままを再現したかった。
強いて言えば、もう少し背景との距離感やそこにある空気感まで表現できれば良かったけれど、スーツのシワや体の厚みや存在感は、今の画力なら上手く描けた方ではないかと思う。
胸から上の、しかも描くのは1人だけ。
人物画としては馴染みのある構図です。
でも、定番の構図故に、逃げや言い訳ができないとも言え、プレッシャーが掛かります。
今回は角田さんの表情に挑戦しました。
結果から話せば、思うような表情を描くことができませんでした。
ここから、いろいろと弄って、表情の根源となるポイントを見つけるのですが、結果見つけることができなくて、寄せきれませんでした。
「誰を描く」ではなく、「どんな雰囲気を描く」のかにこだわっているので、全く印象が違って見えるので、今回の一枚は反省の多いものになりました。
こみちの場合、描きたいものが全て描ける訳ではなくて、最初はリンゴとかコップのような「形」を追うことに終始して来ました。
そこから例えば人物とかに対象が変わるのですが、今でも女性は苦手です。
理由はいくつかありますが、「形」としては難しくないのですが、「人間っぽさ」という意味で難易度がもの凄く高いからです。
人形ではなく、生身の人間という表現が不足していて、例えば、20歳の女性と40歳、60歳と描き分けられるのかというとその画力がありません。
誇張された喜怒哀楽が描けても、含みを持たせた微妙な表情となると、やはりまだまだ描けなくて失敗続きです。
今回、東京03の飯塚さんのこの表情に挑戦したのですが、コントのタイトルにもあるように「義兄弟」である角田さんが自分よりも年下だと気づいて、「俺の方が年上かよ」と態度が豹変したシーンです。
怒るという表情でもなく、悲しむというものでもなくて、年齢というそれぞれの中にある敬いのような感覚が、態度や言葉遣いまでも変化させる東京03らしい感性が現れた場面で、じゃあその表情を「写真的」ではなく、感情的にどこまで描くことができるのかと興味を感じて来ました。
多分、半年前の画力ではここまで細かな表現はできなくて、コツコツと描く中での気づきが蓄積されて、できなかった表現方法に到達できるのかと思います。
なぜ描くのか?
特に特徴のない風景でも、BGM次第で印象が変わります。
明るい音楽なら、何かワクワクした気持ちを連想させますし、暗い音楽なら何か人の内面に触れるようなもの寂しさを感じるでしょう。
こみちにとって描くとは、目で見えている「景色」ではなく、「BGM」の方が対象で、つまり東京03の飯塚さんを描いているというよりも、その瞬間にそこにいる飯塚さんの「雰囲気」や「存在感」を描きたいと思っています。
真正面の無表情な人物画を写真のように描くことはあまり興味がなくて、でも一周回って、「感情を失った時の表情」という意味ではまた描く目的が生まれます。
ある意味、描ける範囲が広がることで表現力も増えると思います。
まだまだ描けない領域がたくさんあって、描いているものでも、本当に描きたい領域まで踏み込めていなかったりもして、「描くこと」の難しさと楽しさをいつも感じています。
こみちは才能がある訳ではなくて、好きでずっと描き来ましたが、結局ののところ、描くことしか出来ない人間かもしれません。
写真を撮ったり、ギターを弾いたり、ランニングもするのですが、「絵を描く」ということほど向き合ってはいません。
きっとそれぞれの分野にも、絵を描くことと同じくらいいろんな要素があって、向き合い方があるはずです。
でもそこまではまだまだ到達していませんし、絵でいう目の前のりんごを描いて楽しんでいる感覚です。
もっと上手くなりたいなぁと思っていますが、先に進むほど時間の割に進歩が感じられなくて、数ヶ月とか半年くらい経て変化を感じるようなところでしょうか。
今回の一枚も、まだまだ不完全ですが、それでも半年前ならここまでは表現できなかったと思います。
だから描くのは面白いですし、「コレ、描けるかなぁ?」という興味は、形としてだけではなく、存在感や空気感まで含まれているように思うのです。
今回、描いたシーンはコントラストが強い場面。
選んだポイントは、角田さんと飯塚さんの二人がいて、飯塚さんが手を伸ばして角田さんに触れていたから。
似顔絵を描く時に、一人だけの場合は必要ないけれど、複数人になるとサイズ感や色味など、いろいろと関係性が気になってくる。
その辺りの描写力は、とても重要だと思っていて、例えば街並みを描いた時も建物や道路だけではなく、そこに居合わせる人など「関係性」があってこそ。
今回のシーンでは、不満顔の角田さんに手を伸ばして制している飯塚さんという関係があって、理由が原因は別としても、左腕を押さえられて立ち上がることが阻まれた雰囲気を描きたかった。
さらに細かなことを言えば、柔らかい生地であろうポロシャツを着た角田さんに対し、綿のTシャツにシャツを羽織った飯塚さんがいることも、光の当たり方で表現できていたら嬉しい。
今回の場合はブラック系の単色で、でも二人の後ろにある奥行き感が感じ取ってもらえたら、さらに嬉しく思う。
写真(画像)の完全コピーも、描画力を向上させる大切な練習ではあるけれど、機械的なコピーにならないように、描いた側の癖やタッチがいい感じに残されていて欲しい。
多分、今回のイラストは、トータルで10時間くらい掛かっていると思うけれど、これをさらにあと50時間使うと画質はかなり向上できると思う。
でも描くという意味では、「高画質」であることよりも「雰囲気をどう伝えられるのか?」にこだわりたい。
前回のイラストでは、角田さんと飯塚さんが抱き合っているシーンで、人が「奥行き」として存在し、それが二人になって抱き合った時にも、人としての厚みを損なわず、存在感を残して描くことを目指したかった。
東京03の「返信メール」は、想いを寄せる相手からなかなか返信メールが届かない飯塚さんが落ち込んでいる場面から始まる。
そこに豊本さんが突っ込み、さらに角田さんが現れて落ち込む飯塚さんに絡み始める。
勢い余って、角田さんが飯塚さんを抱き寄せた。
そのタイミングで、飯塚さんが放った「強めに抱く〜」というセリフが特に好きで、今回はそのシーンを描いてみた。
二人とも白い衣装で、しかもシワが出来やすい。
描く上では、画力が試されるモチーフなので、どこまで描けるか個人的にも試してみたかった。
「絵が上手い」と言われるためには、卓越された画力を目指すことだろう。
でも絵描きと呼ばれる人の大半は、「上手い」ということを重視していないのではないだろうか。
こみちの場合、「コレ、描けるかなぁ?」という気持ちが描くモチベーションになっている。
〇〇さんに似せた絵。喜怒哀楽が伝わる絵。
本音を言えば、もうその辺りには興味が薄い。
例えば、テーブルの上にりんごが1つ置いてあって、それを描くことになったとしよう。
「りんご」を描くとか、写真に見えるほどリアルに描くとか、確かに描こうというモチベーションにはなり得るけれど、描く前から完成度ってある程度見えていたりもする。
でも、描こうとしたりんごに、何か特徴的なキズがついていて、そのキズを見たら別の情景を連想させるような事情があったなら、絵描きはその背景を「描けるだろうか?」と張り切るだろう。
料理にしても、店で食べる味と家で食べる味に差があるのは、「味」には環境や雰囲気のようなものが強く影響するだと思うし、その描写に対して社会経験が伴っていない鑑賞者だと何を意図しているのか気づかないことも多い。
その意味では、りんごを「りんご」として描いたり、「写真っぽく」描いたりことは、見る側に予備知識がなくても鑑賞できるような絵だったりする。
一方で、絵描きが描きたい絵とは、段々とそんな類いから逸れて、見た瞬間に過去の経験や感情と結びつき、「もしかして?」と心を揺さぶることに目的があるのだろう。
つまり、描かれた「りんご」を見た時に、幸せそうな情景が浮かんだり、何か物寂しさが感じられたり、そんな「りんご」を通じて感情表現できたら、絵は存在価値を持つのだろう。
学生時代は喜怒哀楽の全てを満遍なく描いてみるのも大切だけど、社会人になって描くのであれば、自分にしか伝えられないような「気持ち」を表現したい。
人物画、風景画というジャンルに偏りがあったとしても、絵を見ただけで誰が描いたのか分かってしまうほどの感性を絵に盛り込めることが重要だからだ。
いつだったか、漫才のネタは同じなのに、漫才師が変わるとウケ方が違ってくるという映像を見たことがある。
「誰が何を喋るのか?」以上に、漫才師の仕草や間が笑いに大きな影響を与えているという証拠だ。
「あの人、絵が上手いよね!」
そう言わせてしまう原因は、まだまだ絵に中身が伴っていないからとも言える。
「上手い」と褒められることは嬉しいことだけど、その情景や空気感までも描き、見た瞬間に「この気持ちって何だろう?」と言いようのない感情の揺さぶりまでできるようになりたい。
今回はこのシーンを選びました。
人物画を描く時に気をつけているポイントがあって、いわゆる「似顔絵」的なものではなくて、その人の雰囲気を目指しています。
具体的には背丈や重みから来るその人の存在感をどこまで描けるのかを意識しています。
飯塚さんと豊本さんの場合、多分身長的には豊本さんの方が高いはずで、また意外と肩回しも大きくて、でもだからこそ二人が並んだ時には少し猫背気味に立つ癖とかも描きたいと思っていました。
また、絵を描く人にとっては、衣類のシワをどう描くのかは気になる所ですが、雰囲気でパターン的なシワで誤魔化すこともできますが、イラスト的な仕上げではなく、写実的な仕上がりにしました。
腰に巻いたツナギの上着部分のボリューム感も今回の課題になるので、ベース色の青色を基本に、数段階色を使って描きました。
背景のロッカーも加え、立ち位置との距離感も明確になって、画面全体に統一感が出て来たら嬉しいです。
描くことがこみちにできる唯一のことでもあるので、少しずつでも成長できていたら良いのですが…。
みなさんは絵を描いているでしょうか。
右の一枚。
個人的には、「描けるかなぁ?」という気持ちになったモチーフです。
ポイントとしては、ロウソクに灯った炎。
「嗚呼、火がついているなぁ」と無意識に感じ取れるくらいに描けたことです。
そして、もう一つのポイントが、その炎の明かりで照らし出された手や袖の反射具合を表現できること。
最後がグラスを忠実に描くことですが、これに関しては今回特に課題にはしませんでした。
鮮明な元画像を再現するのとは異なり、ある程度の粗さがある場合には、描き手が不鮮明な部分を補いながら描くことで、経験値を活かそう思う部分と、見えたままをどれだけ無で描けるのかという矛盾を抱えます。
今回もトレースやグリッドによるガイドを使っていないフリーハンドなので、元画像と全く同じに描くことはできません。
その代わりに、場の雰囲気や空気感を優先的に伝えることが期待でき、今回の描画でその何割かが再現できていたら嬉しいと思います。
冒頭に挙げたいくつかポイントの他に、両腕を前に伸ばしたことで、胴体との空間が作られています。
それはロウソクの炎の明るさによって視覚的に伝わるものですが、反省点としては腕部分のハイトーンをもう少し抑えることで、全体の距離に統一感が生まれたと思います。
手に関しても、階調としてはもう少し段階を分けて描くこともできたのですが、制作時間にも限りがあったので、時間との兼ね合いで省略したことが全体的の完成度を下げてしまったように感じます。
単純に人物画を似顔絵として描くのではなく、表情や仕草からその場の雰囲気や内面まで描けたらと思っていますが、今回に関しては顔が含まれてはいないので、気持ちというよりももっと美術的な要素として描くことを楽しみました。
暗闇を描くとか、照らされた部分と影の部分を描き分けるような表現は、必ず必要になるものなので、現時点でどれくらいの描写ができるのか確認できる課題でもありました。
修正点や課題もありますが、全体的には満足できる部分も多く、描いてよかったと思います。
どうでしょうか。
今回は特に描きたいと思ったシーンを選んでみました。
ただ、画力が露呈するので、ちょっと自信はありませんが…。
豊本さんが演じるモトコさんに掛かってきた電話が気になって、後ろから忍び寄る角田さんを描きました。
まだまだ細かな部分は描ききれていませんが、雰囲気が伝わっていたら嬉しいです。
ふつう、コントなどのタイトルは、その内容を象徴するようなものから命名させます。
つまり東京03の「誰?」というタイトルのコントでは、誰か誰かに正体を聞きたくなる場面があって、そこに何らかのドラマが潜んでいることになります。
実際、冒頭シーンでは角田さんと豊本さんが二人並んでソファーに腰掛け、豊本さんが演じるモトコちゃんの失恋が根底にあって、不安な気持ちを癒そうとして角田さんが話掛けていたはずです。
今回描いたワンシーンは、角田さんが片手を高く上げて遠くを指さして、「誰〜!」と叫んでいます。
ある意味で、このコントのタイトルが命名された代表的なシーンです。
それ故に笑いがあって、コントとしても大きな盛り上がりになる部分です。
東京03の作るコントは、タイトルから連想されるストーリーとは別角度の「裏設定」があたりします。
その意味では、この「誰?」についても同様で、最後の「オチ」は意外なひと言で終わります。
さらに、この「誰?」では冒頭から繰り返しの「セリフ」が登場し、無意識のうちに視聴者の頭に大きなフリとして認識することでしょう。
話が進むにつれて、その「セリフ」を意識して、ジワジワと笑いを生み出します。
今回、ピックアップしたワンシーンは、コントの冒頭シーンですが、東京03が人気である所以は、仕草の一つひとつがしっかりと演出されていることでしょう。
見ていただいている「絵」ですが、角田さんと豊本さんの役柄はどんな風に見えるでしょうか。
男女だから恋人同士?
でも角田さんの姿勢は少し手すりに寄りかかるようで、親身な間柄には思えません。
しかも、女性役の豊本さんも両手を組んでいて、決してリラックスしているだけではなく、どこか緊張しているようにも見えないでしょうか。
また、膝頭の向きと手の位置に着目しても、角田さんがどこか落ち着かない様子に見えますし、豊本さんは膝頭を角田さんに向けてもいません。
もしもカップルのような関係なら、きっと二人の距離が離れていたとしても、どこか向き合うような空間になることでしょう。
実際、この『誰?』では、角田さんが以前にフラれた経験のある友だちで、豊本さんの家に来ている設定です。
絵を描きながら、東京03の作るコントはストーリーもそうですが、演技という意味でもとても魅力的です。
だからこそ、その雰囲気を感じ取って描いてみたいと思うのです。
場面としては、もっと注目度の高いシーンがあるのですが、絵を描く者としてはあえてこのシーンを選んでみました。
なぜなら、単純に「男女がベンチに腰掛けている」ということではなく、今まで紹介したような設定があって、それに相応しい表情や仕草で彼らは演じているからです。
目標として、描かれた人物が誰なのか分かるということではなく、ある意味で心理のようなものまで感じ取れる絵を描けたらと思っています。
まだまだその域には到達できていませんが、今後もコツコツと描き続けて行きます。
コント「気遣い」は、何か気を利かせて「してあげる」だけではなく、「何もしない」こともある。
東京03のコント「気遣い」では、サラリーマンの先輩と後輩という立場で、後輩役の豊本さんは何かと積極的に先輩の飯塚さんに気を配る。
一方で、もう一人の後輩、角田さんはこれまで表立っては何もしなかった。
「お前、オレに何もしてくれたことがないよな!?」
という飯塚さんに問い詰められて、角田さんが「なんか〜」と語り出し、いつも積極的な豊本さんの行為をいじり出した。
それを見て、飯塚さんも思わず自身の胸に手を当てて、「ドキ!」とあざとさを示す。
コントではとても重要なワンシーン。
今回はそんなシーンを描いてみました。
精密画ではありませんが、コントの雰囲気が少しでも伝わっていたら嬉しいです。